偽書か真書か?旋風を巻き起こした「東日本流外三郡誌」に記された日本の最古神「アラハバキ」 | 地下都市パヤナーガに住むタイ龍蛇族の姫★龍愛(りゅうあ)のブログ

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龍蛇族の姫である龍愛(りゅうあ)がお伝えするスピリチュアルなお話を紹介します

ご訪問ありがとうございます。

 

 

前回は、

 

東北地方に伝わる超・超古代の神様の「アラハバキ」神

 

について、簡単にご紹介させていただきました。

 

 

 

「東北の神様というのは、本当に馴染みがすくないので、わけがわからなくなってきました~」

といったご意見も寄せられておりますが、確かに、私も東北地方の古代史の勉強を始めた時は、初めて聞く神様の名前ばかりで図に書いたりしながら整理しました。

 

このブログは、歴史のお勉強ブログのつもりで書いているわけではないものの、「日本人の魂の根源を知るためには、やはり日本人のルーツを勉強しなければいけない」と、いつもマスターシャーマンである祖母に言われてきたので、ついつい、古代史を語ると熱が入ってしまいます。

 

なので、みなさんには、日本にはこんな神様をいるんだよということを知っていただければいいと思いますので、さらっ~と気軽に読んでいただければと思います。

 

 

 

 

さて、今回も謎の東北の神様である「アラハバキ神」について、続けてお話したいと思います。

 

「アラハバキ神」は、まだほとんど解明されていない神様ではあるものの、謎に満ちているだけに、私はとても惹かれるのですが、皆さまはこの神様に対してどんな印象を持たれたでしょうか?

 

解明されたいない神様だけに、多くの古代史研究者達が飛びついて研究をされているのが現状なので、様々な諸説があります。

 

そもそも、アラハバキ神は、民族信仰の神様に分類されるのですが、神様の分類には4種類あるので、先にそれを紹介しておきますね。

 

 

大きく分けて、神様は

・ 古典の神

・ 人神

・ 外来の神

・ 民族信仰の神

という区分することができるんです。

 

 

古典の神様は、

古事記や日本書紀、風土記などの記述に登場する神様になり、「アマテラスオオミカミ」「イザナギ」「イザナミ」「スサノオ」等、日本人なら一度は聞いたことがありだろう有名な神様ばかりです。

 

 

人神というのは、

実在した人物が死んで、神様として祀られたものになります。

有名な人神に葉菅原道真や平将門がいらっしゃいます。

 

 

外来の神様というのは

名前のとおり、外国から来た神様で、有名な神様としては七福神があげられます。

 

 

最後に民族信仰の神様ですが、

民族信仰というのは、教義や教団を持たない地域間での庶民信仰と定義づけられていてる信仰になるのですが、この民族信仰の神様として日本で一番古くから祀られていたと考えられるのが「アラハバキ」神になるのです。

 

そして、以前から何度もご紹介している諏訪の神の「ミシャグジ神」「ソソウ神」も、民族信仰の神様になります。

 

 

 

ということで「アラハバキ」神は、民族信仰の神様という位置づけになるのですが、このことを裏付けるように、大和や京都等、朝廷があった場所では、アラハバキ神を祀る神社は存在しないんです。

 

その理由としては、大和朝廷が日本を支配する際の政策として、民族信仰の神を封印したという説や、大和朝廷の神様である天津神と土着の神である国津神を合体させてしまったのではないかという説などがあります。

 

 

実際に、アラハバキとつく神社は東北に多く見られ、関東以南では、アラハバキという名前ではなく「客人神」として祀られている神社が多いのです。

 

 

 

このアラハバキ神ですが、私が、皆様に知っていただきたいと考えた理由については、前回お話したとおり「蛇神」である可能性が高いということもあるのですが....

 

さらに日本の古代史を塗り替えるかもしれないと話題になった「東日本流外三郡誌(ツガルソトサングウシ)」に関係がある神様だからなんです!

 

 

 

「東日本流外三郡誌」は、戦後に発見された書物になるのですが、通説では「偽書」とされているのですが、この書物にアラハバキ神の姿がはっきりと記されているんです。

 

すごく話題を呼び学者達の間で、旋風を巻き起こした書物になるので、今回は、この書物についてご紹介したいと思います。

 

 

 

 

「東日本流外三郡誌」は、1948年に青森県五所川原市にあった一軒の農家から発見されました。発見したのは和田喜八郎という男性です。

 

 

この和田さんが、自宅を改装していたところ、突然天井が落ちて来て、一緒に大量の古文書も落ちてきたそうです。

それが、「東日本流外三郡誌」を始めとする「和田家文書」という古史古伝だったそうです。

 

「和田家文書」というのは、1789年から1822年までの34年間にわたり、陸奥国三春藩の藩主であった秋田孝季(のりすえ)さんと、和田喜八郎の先祖である和田吉次さんの二人が、日本全国を巡って情報を集め編纂したものだとされています。

 

そして、1870年から1920年の期間に、この膨大な書物を和田家の子孫であり、和田喜八郎の祖祖父である末吉さんが写本したと言われています。

この写本は600巻以上に及ぶ膨大な資料だったそうです。

 

 

この膨大な資料の一部が、1948年に和田喜八郎さんの屋根裏から落ちてきて、1975年にその内容の一部をまとめた本が「東日本流外三郡誌」として、世に出版されました。

 

この「東日本流外三郡誌」は、古代における東北地方の知らざれる歴史を描いているんじゃないか? としてたちまち広がり、話題を呼びました。

 

学会でも真書派と、偽書派に分かれて対立し、大々的な論争にまで発展したんです。

 

 

そして、最終的には

 

・「東日本流外三郡誌」の中には、光速を表す「光年」という言葉や

・1930年に発見され命名された「冥王星」と言った近代の言葉が使われていることや

・文献上の初出が1978年の「富士王朝」という言葉や

・キリストの墓という言葉や

・江戸時代どころか、明治時代でもありえない用語が使われていたり

・津軽半島にあった十三湊を大津波が襲ったという記述は考古学的にみるとそのような痕跡が確認されていない

 

など、不審な点が多いことに加え、

 

・古文書の筆跡が発見者である和田喜八郎と全く同じだった

 

ことなどから偽書だと確実視されるようになります。

 

 

 

それでも、「東日本流外三郡誌」は、本物だと主張し続ける学者も存在し、雑誌やテレビなので議論が交わされ続けたんです。

 

 

そして、この議論は、邪馬台国の関東説&九州説の議論と同じように、延々と繰り広げられたんですが、1999年に和田喜八郎さんが亡くなれたんです。

 

そして、偽書派によって、亡くなった後の和田家が徹底して調査されることとなりました。

 

その結果、和田喜八郎の家は戦後に建てられたものであり、和田家の天井裏には古文書を隠すスペースは存在せず、原本も発見されなかったんです。

 

 

 

さらに大変なものが見つかります。

 

長期間ペットボトルに保管した尿が大量に見つかったんです。

 

 

長期間保管した尿というのは、新しい紙を古い紙に偽装する薬剤として使われることがあったようなのです。

 

なので、和田喜八郎は、長期間尿を保管して、新しい紙を古紙に変えていったのではないか?という疑念が持たれ、紙を調べたところ戦後のパルプ紙であることが分かったのです。

 

これらのことから、偽書だという結論に至りました。

 

 

 

このことがきっかけで、「東日本流外三郡誌」は誰が見ても偽書だと認定されることになり、話題にされることもほとんどなくなりました。

 

 

ただ、いくつか疑問が残りました。

 

まず、

「東日本流外三郡誌」の内容が超壮大かつとんでもないボリュームであったこと

です。

 

 

「東日本流外三郡誌」が出版された後も、次から次へと新たな「和田家文書」が発見されたので、最終的には「東日本流外三郡誌」を含む和田家文書の総数は、5000冊近くになったのです。

 

これらの内容をすべて創作だったと考えると、それはそれで、すさまじい内容になってきますし、すべてが偽書だとしたら和田喜八郎は、百田尚樹さんに対抗できるくらいの天才小説家だったのかも?と思わざるを得ない状況だっんです。

 

 

 

ただ、和田喜八郎さんは、すぐにバレるような嘘をつく虚言癖があったと言われていたり、無銭飲食で逮捕された経歴があったりする人で、最終学歴については、なんと小卒だったそうなんです。

 

なので、果たしてそのような人物が、5000冊近くの書物を創作し、大学の教授たちを唸らせるような内容が書けるのでしょうか?

 

 

 

さらに、尿の入ったペットボトルですが、日本でペットボトルが使われるようになったのは1977年からであり、「東日本流外三郡誌」が刊行されたのは、1975年になることから、刊行時からペットボトルの尿を使用していたとは言い難いのです。

 

 

 

その後、和田家文書を補完した人が、「原本が見つかった」と発表したのですが、そこ頃にはすでに話題にもならなかったこともあり、原本はいまだに見つかっておらずどこにあるのか明らかになっていないのです。

 

また、「東日本流外三郡誌」に書かれた内容が、誰かにとって都合の悪い内容であったとしたら、様々な方法で徹底的に消されたという可能性もあるのです。

 

 

 

では、この「東日本流外三郡誌」とはいったいどのような内容の書物だったのでしょうか?

 

一言でいいますと「壮大なスケールで描かれる古代津軽王国」になります。

 

 

 

「東日本流外三郡誌」は、5万年前に大陸から海を越えてやって来た「アソベ族」という民族が、津軽の地に漂着するシーンから始まります。

 

彼らは狩猟生活を営み、長い間平和に暮らしていました。

 

しかし、5000年前に、大陸から別の民族がやって来ますそれが、に津軽に漂着した「ツボケ族」という民族です。

 

好戦的なツボケ族は、津軽の地で暴れ散らかしたことから、平和的なアソベ族は山辺に追いやられて移り住むようになります。

けれど、アソベ族とツボケ族は、元を辿れば同祖であり、アソベ族は西の大陸からやってきて、ツボケ族は東の大陸からやって来たとされていました。

 

その後、津軽の地を大地震と噴火が襲い、アソベ族が壊滅的な被害を受けてしまいます。

 

そのためわずかに生き残ったアソベ族は、ツボケ族の支配下に置かれてしまいます。

そして、ツボケ族とアソベ族は融合し、巨石を用いた縄文文化を形成しました。

 

その後、弥生時代になると、九州と大和で巨大な勢力同士が争うようになっていました。

 

大和を支配していたのが、ナガスネヒコと安日彦(アビヒコ)という兄弟であり、彼らが治める国は「邪馬台国」と呼ばれていました

 

九州を支配していたのが、台湾から北上してきた日向族であり、その一族を支配していたのが巫女でした。

 

 

そして、この戦いでは日向族が勝利します。

 

この戦いでアビヒコは片目を失い、ナガスネヒコは片足を失うほどの大怪我をしました。

 

勝利した日向族は奈良の地に大和朝廷を開き、神武天皇が誕生しました。

 

 

 

一方その頃、津軽でも別の戦いが起こっていました。

 

戦乱に明け暮れる中国大陸から亡命してきた「晋の一族」が津軽に辿り着き、ツボケ族を平定していたのです。

 

そのタイミングで、大和からナガスネヒコとアビヒコが東北に逃げて来ていました。

 

またもや戦争が勃発するかと思いきや、両国は婚姻によって融合するのです。

 

ナガスネヒコとアビヒコは晋の一族の姫を娶って混血した結果、自分達のことを「アラハバキ族」と名乗ったのです。

 

アラハバキ族のトップは「津軽丸」と呼ばれて東北を支配し、大和朝廷からは「蝦夷」と呼ばれて忌み嫌われるようになったのです。

 

 

一方大和では、神武天皇が崩御した後、アラハバキ系の「手研耳命(タギシミミノミコト)」が支配することとなります。

 

大和は日向族系がトップになったけれど、東北に逃げたアラハバキ族とも交流があって、平和を維持するために混血し、時にはアラハバキ系の人がトップになることもあったと記されているのです。

 

 

さらにその後、アラハバキ系の「孝元天皇」が即位し、大和を間接的に支配するも、朝鮮半島からやってきた「カラクニ皇」に大和を奪われてしまうのです。

 

そして、奈良時代になって、アラハバキ系の「孝霊天皇」が即位します。

 

また、アラハバキ族のトップ津軽丸は、万世一系で続いていき、平安時代中期の武将であった「安倍貞任」として活躍し、やがて安東氏と呼ばれるようになりました。

 

「前九年の役」で有名な安倍貞任は、ナガスネヒコの血を引くアラハバキの王族だったということになるのです。

 

この安東氏政権は、平安時代後期から力を強めていき、中国との貿易を基盤に大和朝廷に匹敵するレベルの文化国家に成長していきます。

 

つまりナガスネヒコの末裔が、津軽地方に大国を建国していったということであり、大和朝廷は蝦夷を恐れていたのです。

 

津軽半島にあった安東氏政権の首都「十三湊(とさみなと)」は、中国だけでなく挑戦、アラビア、欧州、東南アジアとの貿易で栄え、津軽の繁栄はアジア全域に知れ渡っていくのです。

 

 

「黄金の国ジパング」とは、津軽の古い呼び名で「チパンル」に由来すると記されています。

 

中世の時代には繁栄した津軽でしたが、1341年に悲劇が襲います。

アラハバキ族の首都である十三湊が大津波に襲われ、一夜にして壊滅してしまったのです。

 

東北で栄華を極めた文明は大津波によって土砂に埋もれ、アラハバキ族の歴史も、正史から完全に消されてしまったのです。

 

これにより、アラハバキ族が信仰していたアラハバキ神の存在も忘れ去られ、東日本を中心に名前だけ祀られるようになったとされているのです

 

 

以上が、「東日本流外三郡誌」の簡単な内容の説明になります。

偽書だとしたら、これだけ濃い内容を、和田喜八郎はどこで得たのでしょうか?

まだまだ謎は残されたままなのです。

 

 

ただ、「東日本流外三郡誌」の中でもアラハバキ神が描かれているものの、結局はどのような神だったのかはわからないのです。


「東日本流外三郡誌」の挿絵に、アラハバキ神のイラストが描かれています。

 

 

 

それが、津軽半島の亀ケ岡遺跡で発掘された遮光器土偶とそっくりなのです。

 

 

目に当たる部分が、エスキモーが用いた遮光器に似ていることから「遮光器土偶」と呼ばれるようになったのですが、宇宙人を模しているという解釈もあります。

 

腰からお尻にかけての曲線や、乳房があることなどから、女性を形どっていると言われています。

 

つまり、アラハバキ族は女神信仰だったということが言えます。

 

 

 

ただ、この偽書だと言われている「東日本流外三郡誌」の中で語られている内容が、実は、別の伝承といろんな形でリンクしてくるのです。

 

 

次回からは、さらに深堀していきたいと思います!!

 

 

 

★ 龍族の女王源九郎とよさんのブログ


とよさんがタイに来る前に、神様から与えられた貴重な体験として、

源九郎稲荷神社という荒廃した神社を復興された

ことについては、その活動記録のサイトを立ち上げられています。

 

このサイトに掲載されているブログには、とてもたくさんの不思議なお話が紹介されています。

私のブログを読んでくださる方には、是非同時に読んでいただきたいと思います。

 

そして、とよさんがしてきたような小さな小さな活動が、多くの人の心に愛と慈悲を取り戻すことに繋がるのだと思っています。

源九郎稲荷神社~復興への道~
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