怖い怖い~! 屈族と怨念に満ちた・・・大国主の子孫が語る「出雲口伝」って何? | 地下都市パヤナーガに住むタイ龍蛇族の姫★龍愛(りゅうあ)のブログ

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龍蛇族の姫である龍愛(りゅうあ)がお伝えするスピリチュアルなお話を紹介します

ご訪問ありがとうございます。

 

 

前回は、

 

偽書か真書か「東日本流外三郡誌」

 

について、ご紹介させていただきました。

 

 

 

東日本流外三郡誌は、津軽族(アラハバキ族)について書かれたものでしたが、結論的には、偽書だと言われていることがわかりました。

 

しかし、その内容は壮大な内容であり、この情報をいった作者の和田喜八郎はどこから得たのか?という、新たな謎が出てきましたよね。

 

そこで、今回は、場所を出雲に移して「出雲族」の子孫が、極秘口伝を昭和時代に発表し注目された口伝について、紹介したいと思います。

 

 

 

 

日本にははるか昔から「語り部」と呼ばれる役職が存在しました。

 

源九郎とよさんが復興させた「源九郎稲荷神社」でも、中川さんという総代さんが、「語り部」として神社の歴史などを、参拝者に聞かせるという役割を担ってくれています。

 

 

 

現代は、語り部がいなくても、ネットで気軽に検索して情報を得ることができますが、まだ文字がなかった時代には、一族の歴史は、語り部と呼ばれる人に記憶されて語り伝えられて来たんです。

 

私達のシャーマンの間でも、年寄りのマスターシャーマンから多くの口伝が語り伝えられ、それを受け継いだ私達若いシャーマンは、次世代のシャーマンへと語り継いでいく役割を担っています。

 

 

 

日本の古代史である古事記も「稗田阿礼」という語り部が伝えたものを、大野安麻呂が感じで記録していきました。

 

漢字が伝わってから移行は、漢字により過去の歴史のほとんどは現代に伝えられてきましたが、中には文字には一切残さず、4000年もの間語り継いで昭和の時代になってやっと、その口伝を発表した人物がいたんです。

 

 

それが、元産経新聞編集局次長富當雄(とみまさお)さんになります。

 

 

富當雄さんは、かつて存在した出雲王朝の4000年の歴史を受け継ぐ「大国主の子孫」だと語られています。

 

富當雄は、作家・司馬遼太郎の産経新聞時代の同僚であり、司馬遼太郎が昭和36年に出版した「生きている出雲王朝」という小説にも、出雲神族の口伝を受け継ぐ「語り部W氏」として登場している人なんです。

 

 

 

富當雄は、1979年の67歳の時に、ある雑誌のインタビューで、この出雲神族の口伝について語られたんですが、その内容が、東日本流外三郡誌に勝るとも劣らない衝撃な内容でした。

 

 

1928年16歳だった富當雄さんは、本家である富饒若さんの養子になりました。

富家には、一族の中から最も優秀な人物を本家の養子として迎えるしきたりがありました。

 

 

養子として迎えられた最初の冬に、ある日突然義父の富饒若さんから「當雄、風呂場に行って身を清めてきなさい」と命じられました。

 

富當雄さんは、何が始まるのか見当もつかず不安になりましたが、言われた通り身を清めると、白い麻で織った服を着せられたそうです。

 

その後、裸足のまま連れ出された富當雄さんは、出雲大社の東にある出雲井神社に連れて行かれました。

 

 

この出雲井神社に祀られているのが、富家の遠い祖神である「クナトの大神」でした。

 

この場所で、富當雄さんは10年もの間、義父から口伝を聞かされ続けたそうです。

 

 

 

そして、受け付いた口伝については、たとえ兄弟であっても言ってはダメだときつく命じられたそうです。

 

いずれ當雄さんが子供に伝えるまでは、命にかけて守ることを約束させられたそうです。

 

 

 

 

では、富當雄さんが受け付いた出雲王朝の歴史をご紹介しますね。

 

 

出雲口伝の始まりは超古代にまで遡ります。

 

4000年前のある時、世界が一夜にして氷漬けになりました。

 

富家の祖先であるクナトノ大神は、その難を避けるために一族みんなを引き連れて大移動を始めました。

 

東の彼方から氷の山を越えて海沿いを歩き続けた結果、ようやく辿りついたのが出雲の地でした。(クナトノ族は、海外から日本に渡って来たことを表しています)

 

出雲に辿りついたクナトノ大神は、様々な知識を持っていたので、前から出雲に住んでいた人々に、鉄の取り方、布の織り方、農耕の方法を教えていき、土地の人々に慕われるようになりました。

 

そして、ついにクナトノ大神が、その土地の王に選ばれることになりました。

 

 

クナトノ大神は、日本列島を生み出した「イザナギノミコト」「イザナミノミコト」の長男であり、この長男を初代として57代のクナトノ大神がいたと伝えられています。

 

こうして出雲親族の歴史がスタートしたのです。

 

 

ここまでの話で、クナトノ大神は外国から来たんじゃないの? 

いきなり「イザナミ」「イザナギ」の長男って話が出てきたのはどういうこと?

 

と思われたと思います。

 

 

 

これについては、クナトノ一族は、元々日本に住んでいて、イザナギとイザナミによって海外に派遣され、再び長い年月をかけて日本に戻って来た可能性があると考えられているようです。

 

 

出雲神族は、自分達のことを「龍蛇の一族」だと考えていて、一族のトップは神と呼ばれていました。

 

毎年10月には、各地の神が集まって、その年の収穫物の分配について話合っていました。

収穫物が多い国は、少ない国に分けたりして、みんなで共存して暮らしていました。

 

 

ただし、死体は穢れたものとして忌み嫌われ、死体を見たり触れたりすると、王子のような立場であっても相続権が失われるレベルのタブーとされていました。

 

 

また、勾玉は王家のみがつけることを許されていて、勾玉の形というのは「祖先の魂」を表すものだったそうです。

 

 

こうして、クナトノ大神が治めていた出雲は平和に暮らしていたのですが、あるとき、とんでもない存在の者が出雲にやってきたのです。

 

それが、「スサノオノミコト」です。

 

スサノオは砂鉄を奪うために、朝鮮から馬を連れてやって来たかと思うと、瞬く間に各地を制圧して、出雲の地を我が物顔で歩くようになりました。

 

さらに、九州にいた天孫族とも対立していました。

 

そこで、クナトノ大神は、自分の娘を天孫族のアメノホヒと結婚させることで和解しようとしました。

 

当時は、一族のい人同士が結婚することで、国と国との結びつきを生み出していました。

 

ところが、天孫族のアメノホヒはスパイであり、裏側で情報を集めた後、九州からたくさんの船を手引きして、出雲の地を侵攻し始めたのです。

 

この戦いによりたくさんの出雲族が亡くなりました。

 

そして、出雲族の大国主は「これ以上多くの民が死ぬのは堪えられない」と言って、息子の事代主に、国を天孫族に譲っても良いかと尋ねます。

 

事代主は「私は正直反対ですが、父上がそういうなら従います」と言いながらも、天孫族の目前で海に飛び込んで自殺してしまったのです。

 

さらに、大国主も洞穴に閉じ込められて、そのまま殺されてしまいます。

 

 

 

こうして天孫族は、出雲の地を手に入れたのですが、当時の出雲族は今の出雲の地だけでなく、大和も支配していたので、次に大和を狙うこととなったのです。

 

この時、大和に君臨していたのが、出雲神族の王である「ナガスネヒコ」でした。

 

そして、海外からやってきた「八咫烏」を率いた天孫族の神武天皇が、大和に攻め入ります。

 

けれど、大変強いナガスネヒコをなかなか倒すことができなかったため、神武と八咫烏は和解を持ちかけましたが、和解するふりをしながらも、実は裏で次々と出雲人を虐殺していったのです。

 

この戦いで、トミノナガスネヒコは傷ついて、大和を神武に譲って出雲へと退きます。

 

こうして大和は神武天皇が手に入れたのです。

 

トミノナガスネヒコは、その後出雲の地で亡くなりますが、出雲人自体は、大和、出雲、北陸、関東、東北などに分散させられます。

 

さらに、神武天皇以降の王は、出雲族の反乱を防ぐために、出雲の王の娘を妻に迎えます。

 

しかし、その後の大和朝廷はなかなか一つにまとまりませんでした。

トップが空席になったときは、出雲神族が天皇を務めることもありました。

 

けれど、ずっと大和側に出雲族は都合よく使われてきたのだそうです。

 

 

 

以上が、出雲族に口伝として受け継がれている「出雲口伝」の内容になります。

そして、これらの内容が、昭和時代に発表されたのです。

 

 

しかし、口伝であるが故に物的証拠がないことや、発表する時代が早すぎたのか? 一部の人にしか受け入れられない内容となってしまいました。

 

 

ただ・・・

ここで、出雲口伝と前回お話した「東日本流外三郡誌」の2つのストーリーを照らし合わせてみると、東日本流外三郡誌では疑問だったいくつかのことに説明がつくのです。

 

その点について、簡単にご紹介しておきますね。

 

 

 

前回お話した「東日本流外三郡誌」では、5万年前に津軽に漂着して平和に暮らしていた「アソベ族」を、5000年前にやってきたツボケ族が支配したと記されていました。

このツボケ族は東の大陸から日本にやって来たと記されていました。

 

 

しかし、出雲口伝では、4000年前に国を失ったクナトノ一族が、何代にも渡り、東の彼方から海沿いを歩き、出雲に辿り着いたというのがスタートでした。

 

出雲といえば、現代の感覚では「島根県」ですが、古代日本では、出雲族が支配している土地のことを「出雲」と呼んでいました。

 

 

では、クナトノ一族がたどり着いた「出雲」というのはどこだったのでしょうか?

 

「出雲口伝」の内容は、東北の山や湖に関する伝承が多いそうです。

 

クナトノ一族は、ベーリング海を渡り北海道、東北、そして出雲へとやって来たのだろうと言われているそうで、つまり、東の彼方からベーリング海を渡って来たということは、クナトノ一族は、もともとアメリカ大陸にいたということになります。

 

そして、東北の土地の伝承が多いというのは、クナトノ一族が日本に辿り着いて最初に出雲の地と定めたのが、東北の地、すなわちツボケ族と同じ「津軽」だったのではないか?とも考えられるのです。

 

 

 

東日本流外三郡誌と出雲口伝を見比べると、

 

・5000年前に東の大陸から長い年月をかけてやってきて、津軽に辿り着いたといわれるツボケ族

・4000年前に東の大陸から長い年月をかけてやってきて、東北に辿り着いたと言われるクナトノ一族

 

は、伝えられている年月に違いはあるものの、同じ民族である可能性が高いと推測されるのです。

 

つまり、ツボケ族=古代出雲族 だった可能性があるわけなんです。

 

 

 

出雲口伝に伝わるクナトノ一族がたどり着いた最初後が出雲だとしたら、出雲神族の王であるトミノナガスネヒコは、津軽から勢力を拡大して大和を支配したと考えられます。

 

つまり、トミノナガスネヒコは、津軽出身だったということになります。

 

 

そして、神武天皇に敗北したナガスネヒコが出雲に戻ったというのは、津軽に戻ったということになるのかもしれません。

 

トミノナガスネヒコが、ツボケ族=古代出雲族になるとしたら、東日本流外三郡誌に登場する津軽のツボケ族の長(王)だったということになります。

 

 

ますます頭が混乱してきますよね~。

(もし、東日本流外三郡誌と出雲口伝の内容の関連性をはっきりと理解したい方は、一度図に落としてみるとわかりやすいかもしれません。)

 

でも、あまり深く考えないでさらっと流して聞いてくださいね。

 

 

 

 

そして、東日本流外三郡誌では、後からやってきた晋の一族がツボケ族を支配しかけてたところに、王のナガスネヒコが仲間を連れて津軽に引き連れて帰ってきたと考えると、王の帰還でツボケ族は勢力を盛り返したため、晋の一族は、戦う道ではなく、それぞれの一族同士の結婚により、融合の道を選んだのかもしれません。

 

 

東日本流外三郡誌の描写だけでは、ナガスネヒコが神武天皇の負けた後、何のゆかりもない津軽に逃げたのか? が不明だったのですが、出雲口伝と照らし合わせると、単に故郷に戻っただけなんだということが分かったのです。

 

 

ナガスネヒコが、中国大陸からやって来た晋の一族と、戦争をすることなく融合という形で渡り合うことができて、その結果「アラハバキ族」が生まれることになり、その後、一族から天皇を務めた存在が出たという点についても、出雲口伝と東日本流外三郡誌の2つの伝承は、かなり近い内容であると言われているのです。

 

 

そのことからも、いまだに学者達の一部には、「東日本流外三郡誌が完全な偽書ではない」という人も存在するわけなんです。

 

 

東日本流外三郡誌によると、アラハバキ族のトップは男性が務めていましたが、アラハバキ族が崇拝していたのは、遮光器土偶と同じような姿をした女神でした。

 

 

 

では、出雲口伝に伝わる出雲親族はどうだったのでしょうか?

出雲口伝では、出雲神族のトップは男性神クナトノ大神だと伝えられていますが、信仰していた神様はどんな神様だったのでしょうか?

 

 

出雲口伝を発表した富當雄さんに、何度もインタビューをされている作家の「吉田大洋」さんが、富當雄さんからすごい情報を聞き出し公開しています。

 

吉田大洋さんの著書である「謎の弁財天女」によれば、富當雄さんは亡くなる数日前に、隠し続けて来たあるとんでもない口伝を明らかにしたと記されています。

 

 

 

富當雄さんは

 

「我々の大祖先はクナトノ大神だが、もう一つ隠された女首長が存在します。それがアラハバキです。アラハバキ神が朝廷側に抹殺されようとした時、クナト神は「地蔵菩薩」に、アラハバキは「弁財天」へと姿を変えました」

 

といった驚きの内容を明らかにしたそうです。

 

 

 

やはり、出雲口伝にも「アラハバキ」というキーワードが出てきました。

 

アラハバキは東北の神様なので、やはり出雲口伝が示す「出雲」と呼ばれる地は、津軽だったということであり、出雲神族が信仰していたのは、後に弁財天へと姿を変えた「アラハバキ神」という女神だったということが明らかになったのです。

 

 

 

弁財天については、隠されし神と呼ばれる謎の女神「瀬織津姫」とも同一視される存在です。

 

アラハバキ神=弁財天となると、瀬織津姫との関係性も気になってきますよね~。

さらに、実は、おとぎ話に登場する「かぐや姫」との関連性も考えられるのです。

 

 

 

日本に伝わる古文書の代表である「古事記」「日本書紀」だけでは知ることができないディープな情報が、各地に残された口伝には伝えられており、様々な角度から口伝を紐解いていくことで、奇妙な共通点とか謎が解明できたりするのだと思います。

 

 

これまでご紹介したお話は、現在注目されている、いくつかの諸説をご紹介しているだけであり、けっしてこれらが真実だとは限りません。

 

なので、「龍愛さんは嘘ばかり紹介している」と反論される方もいるかもしれませんが、あくまでも「こんな伝承もあるんですよ」という内容を紹介しているだけで、けっして真実だとは申していないので、その点をご理解していただいた上で、歴史の雑談として軽く受けて止めていただければありがたいです。

 

 

 

ということで、今回は1つの解釈として

 

龍族のルーツである「古代出雲族」が信仰していたのは。東北の神である「アラハバキ神」という女神だった

 

ということをご紹介させていただきました。

 

 

「あっ~しんどい~」という声が聞こえてきそうなくらい、理解するのには頭が混乱しまくる情報群なのですが、日本にはまだまだすごい口伝や伝承が残されているので、龍族のルーツを解き明かしていく上で大切なことなので、どんどんご紹介していきますね。

 

 

 

 

★ 龍族の女王源九郎とよさんのブログ


とよさんがタイに来る前に、神様から与えられた貴重な体験として、

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ことについては、その活動記録のサイトを立ち上げられています。

 

このサイトに掲載されているブログには、とてもたくさんの不思議なお話が紹介されています。

私のブログを読んでくださる方には、是非同時に読んでいただきたいと思います。

 

そして、とよさんがしてきたような小さな小さな活動が、多くの人の心に愛と慈悲を取り戻すことに繋がるのだと思っています。

源九郎稲荷神社~復興への道~
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