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前回は、
卑弥呼の甥で四道将軍の大彦も、古代出雲国の王族の血を引く人物だった
というお話をしました
四道将軍は、崇神天皇の時代に、日本全国を制定するために各地に派遣されたのですが、その中で、卑弥呼の甥に当たる「大彦」は、派遣された越の国にそのまま住みついてしまいました。
大彦というのは、第八代孝元天皇の第一皇子なので、当然、次の天皇の皇位継承者となるわけなのですが、そんな立場の王子様がなぜ? 東北地方に住み新たに国を築いたのか?
これは、かなり特異な出来事ですよね?
今回は、そこに隠された謎から、記紀で伝わるその後の出来事等について、私達タイのシャーマンの間で伝わる、少し特異な解釈についてご紹介したいと思います。
このことは後に源九郎とよさんの過去世に繋がる話となっていきますので、ややこしいお話ではあるのですが、どうかもう少しおつきあいくださいね。
さて、まずは、この四道将軍である「大彦」の謎について考えてみましょう!
まずは、崇神天皇が、大彦を越国に派遣した時期ですが、おそらく
それまで大和朝廷を平定していた「卑弥呼」が亡くなり、再び国が混乱した時代
のことになるのでしゃないでしょうか?
四道将軍の最大の疑問点は、四道将軍の存在した時代がそれぞれ違うことです。
※ 四道将軍には、崇神天皇の3代前の天皇である「孝霊天皇」の息子の吉備彦も含まれている。
※ 吉備彦が使わされた「吉備国」は温羅一族が猛威を振るっていた国になるので、卑弥呼が国を平定する以前の第一次倭国大乱の時代の話だと考えられる
※ 四道将軍の「吉備彦」と「大彦」では派遣された時代が違うのに、すべて崇神天皇の時代とされている
つまり、この四道将軍の記録は、いくつかの時代の出来事を1つにまとめていると考えられ、時系列は滅茶苦茶になっています
なので、大彦が派遣された時代は崇神天皇が統治する時代であり、卑弥呼が亡くなった後だとして話を進めます
さて
中国の古代書である「魏志倭人伝」には、卑弥呼が亡くなった後、男王がトップに立ったが、再び国が混乱したので、今度は卑弥呼の宗女である13歳のトヨを祭祀王にしたところ、争いが収まったと記されています。
ここでいう男王というのは、おそらく崇神天皇のことを指すのだと思われます。
卑弥呼が亡くなった後の混乱については、ここでは「第二次倭国大乱」という呼び方をしたいと思います。
第二次倭国大乱が起こった時代に、崇神天皇が四道将軍の中の「大彦」を「越国」に派遣しましたが、大彦は大和には戻らずそのまま東北に住み着いて新しい国を作りました。
これが事実だとしたら、これは「大彦」の意思で東北に住み着いたのではなく、本当のところは「崇神天皇が出雲国王家の力を排除するために大彦を大和から追い出した」という事実を、四道将軍として派遣したとして、話を置換えて記していると考えられないでしょうか?
アマテラスから続く日向族の大和朝廷(天皇家)は、初代神武天皇からずっと男の王が国を治めてきました。
ところが次第に国が乱れ、男の天皇が四代も交代する長きにわたる戦争が繰り広げられたことから、卑弥呼がトップに立つことで国が平定されました。
前回説明したとおり、卑弥呼の母親の倭国香媛は古代出雲王族の人間であり、卑弥呼も古代出雲国の王族の血を引くことになります。
さらに、女性の巫女をトップに立てるということは、女性祭祀王が国を治めるという古代出雲王朝のシステムを採用したということであり、日向族一色だった大和王朝に、古代出雲王朝の力が復権されたということになります。
そんなことから、第一次倭国大乱後の大和王朝は、古代出雲王朝のシステムを再び採用したため
政治を統べる統治王 → 男王(孝元天皇、開化天皇、崇神天皇)
祭祀を司る祭祀王 → 女王(卑弥呼)
という二人の王で国を治めていたと考えられます。
ところが、卑弥呼が亡くなった後の崇神天皇の時代に、この古代出雲国のシステムは破壊されたのではないか?と、私達は推測しています。
つまり、女性の祭祀王と男性の統治王との2人で国を治める古代出雲国のシステムを止めて、再び統治王の崇神天皇ひとりで国を治める、かつての大和朝廷(日向族)のシステムに戻したとは考えられないでしょうか? あるいは、卑弥呼の後に祭祀王になったのは女性の巫女ではなく、男性だったのではないでしょうか?(こちらの説の方が可能性があると思っています)
そのために、卑弥呼と同じ古代出雲国の血が流れる「大彦」は邪魔な存在だったと思われます。
出雲の血を引く「大彦」を「四道将軍」として東北に派遣する(実際には追い出したのではないか?)ことで、出雲王族の力を大和から排除したこと考えています。
東北に追いやられた「大彦」の一族は、「蝦夷」という存在になり、やがて安倍氏に繋がって行きます。
ところが・・・
崇神天皇にすれば、古代出雲王族の力を大和朝廷から追い出すことで、してやったりだったのかもしれませんが、その後、出雲国の残党たる蝦夷が暴れまくったため、再び国が乱れて第二次倭国大乱の時代がやってきます。
記紀では「疫病が流行して国の人口の半分が亡くなった」と記載されていますが、本当のところは疫病ではなく
再び争いが起こったのではないか?
つまり第二次倭国大乱が起こったのではないか?
国の人口の半分は戦死してしまったのではないか?
とは考えられないでしょうか?
記紀では、
「出雲国王家の血を引くオオタタネコに、大物主と倭国の祖神である倭大国魂神を祀らせたことにより疫病は収まった」
とされています。
これは、崇神天皇が古代出雲国の残党の「蝦夷」に対し、体裁だけを取り繕ったにすぎず、このことにより、出雲国の反乱を止めたということなのかもしれないのです。
ということで、この崇神天皇の時代に、政権の大きな変動があった可能性があり、そのことを記紀では、「四道将軍」や「疫病」といった違う話に作り替えて、うまく隠しているのではないかと考えられるのです。
ここまでの推測は、あくまでも、私達シャーマンの間で伝わっている口伝でしかないので、それは間違っているという反論もあるかとは思いますが、あくまでも1つの参考として聞き流してくださいね。
次に、「大彦」については、「浦嶋子」と繋がってくる見逃せない伝承があり、それらの伝承には「浦嶋子の正体」についてのヒントが隠されているので、参考にご紹介したいと思います。
参考とする文献は「丹後国国風土記」です。
この風土記では、浦嶋子の子孫は「日下部氏」だと記されています。
「日下部氏」の起源(先祖)は、いくつかの系統が存在しており、
1つ目が「饒速日(ニギハヤヒ)」
~長髄彦を従えた古代大和の王
2つ目が「海幸彦の子孫」である「隼人」
~隼人は犬養氏と同じ存在
3つ目が「大彦」
~第八代孝元天皇の第一皇子
が考えられています。
このうちの3つ目の起源として、
浦嶋子=大彦=日下部氏
のつながりが記されているのです。
この3つの起源(先祖)については、いっけんバラバラの存在に思えますが、いずれも「大和朝廷の敵」として描かれています。
記紀ではどのように、朝廷の敵として描かれているかといいますと
まず、
ニギハヤヒは長髄彦を従えた古代大和の王として描かれています。
つまり、初代神武天皇の敵となる存在として描かれているのです。
次に海幸彦は、記紀の記述では天孫アマテラスの孫という設定になっていますが、後に弟のホオリと争って敗北し「隼人として朝廷に従うことになった」と描かれており、やはり一時的には朝廷の敵なる存在だったことが描かれています。
最後に大彦は、大和朝廷の皇族ではあるが、血筋的には古代出雲王国の一族であり、その後蝦夷となり朝廷からは敵視される存在となったとされています。
とうことで、これら3つの氏族がすべて日下部氏(浦嶋子)のルーツだとすると、浦嶋子の家系には、蝦夷(大彦)やニギハヤヒなど、様々な血が混ざっている可能性があるのです。
次に、参考となるのは、神社に伝わる伝承にも、浦嶋子の正体について記されています。
浦嶋子の出身地である京都府与謝郡には
浦島太郎発祥と言われる神社
があります。
その名もずばり「浦嶋神社」といいます
この神社の伝承には、
「浦嶋子はツクヨミの子孫である」
と書かれているんです。
ツクヨミという名前は、私の最初の頃のブログに出てくる「秦氏」のところで少しだけ登場した一族です。
7300年前の鬼界カルデラ大噴火のタイミングで、日本から逃れて大陸に移り住み、その後長い年月をかけて日本に戻って来た氏族になります。
彼らは、後に「秦氏」になったとか「除福」になったとか言われています。
この伝承は、ツクヨミ族は大陸から日本に戻って来た「海洋民族」だったということを示唆しています。
さらに、与謝郡を含む丹後国には、「羽衣伝説」というおとぎ話も伝わっていますし、機織や酒造といった渡来系の技術を人々に伝えたという伝承も残っているのです。
つまり、渡来系の海洋民族の拠点が、丹後国にあった可能性がかなり高いのです。
記紀や正統竹内文書には、
〇 このツクヨミ一族のトップというのが アメノホアカリこと「ニギハヤヒ」であり、神武王朝以前の時代に日本に降臨し、中心地である大和を目指した
〇 ニギハヤヒは当時大和を統治していた古代出雲族の長髄彦と対峙することになった
〇 ニギハヤヒは、古代出雲国が女性祭祀王が最も強い力を持っていたので、「王族の姫君とさえ結婚できれば古代大和国を自分のものにできる」と考えた
〇 色々と暗躍したニギハヤヒは、古代出雲の姫君である市杵島姫命(高照姫)と結婚することに成功し、古代日本の初代統一王となった
〇 ニギハヤヒ(アメノホアカリ)の子孫は、後に「海部氏」と呼ばれるようになる
〇 この海部氏と古代出雲族が結びついて、最初の王朝が誕生した。(神武天皇が現れる前の話)
といった内容のことが伝えられています。
簡単に言うと
ツクヨミの子孫ニギハヤヒ=アメノホアカリ が大和を奪いに来て長髄彦と闘い、出雲国の姫と結婚するという形で大和を平定して海部氏になった
ということなるのです。
このツクヨミ族の話が浦嶋子のルーツになるとすれば、
「浦嶋子は海部氏と出雲族の交わりによって誕生した初期大和王朝の末裔」
の可能性がでてきました。
つまり、初代大和王朝というのは、ニギハヤヒが作った海部族と古代出雲族が交わることによって建国された「海部王朝」になるのです。
ところが、この後、日向族であるアマテラスの子孫である神武天皇が大和を奪いに来きて、ニギハヤヒ・ナガスネヒコの海部王朝と戦いになります。
これが記紀で描かれている「神武東征」の出来事ですが、神武天皇との戦いにより海部王朝は敗北し、丹後国や若狭国に逃れることとなります。
この流れで ニギハヤヒ一族である「海部氏」は、浦嶋子の故郷である「丹後国」に辿り着いたということになるのです。
以上の伝承から、浦嶋子は、ニギハヤヒ一族と古代出雲族の血が混ざった「海部氏」の末裔であるということがわかってきました。
つまり、浦嶋子には「ニギハヤヒ」の血と「大彦」の血が入っているということなのです。
さて・・・ここで新たに疑問が出てきました。
「浦嶋子は海部族の末裔」だとすると、以前にお伝えした「海幸彦=浦嶋子」という話はどう繋がるのか?
ということです。
これについては、今回も長くなりましたので次回にお話したいと思います。
★ 龍族の女王源九郎とよさんのブログ
とよさんがタイに来る前に、神様から与えられた貴重な体験として、
源九郎稲荷神社という荒廃した神社を復興された
ことについては、その活動記録のサイトを立ち上げられています。
このサイトに掲載されているブログには、とてもたくさんの不思議なお話が紹介されています。
私のブログを読んでくださる方には、是非同時に読んでいただきたいと思います。
そして、とよさんがしてきたような小さな小さな活動が、多くの人の心に愛と慈悲を取り戻すことに繋がるのだと思っています。
源九郎稲荷神社~復興への道~
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