ご訪問ありがとうございます。
前回は、
卑弥呼は双子だったという、史実とは違うスピリチュアルなお話
をしました
前回のお話は、あくまでも一人の女性の過去世の記憶に基づくお話なので、あくまでも彼女が描く物語として軽く記憶にとどめておいてくださいね。
さらに、前々回は、
温羅一族を倒した後に古代出雲王朝の地を引く「卑弥呼」がトップに君臨して国が平定された
というお話をしました。
今回は、記紀や正統竹内文書等では、
さらに卑弥呼が亡くなった後の大和国がどうなったのか?
について、どのように伝えられているのかについて、ご紹介していきたいと思います。
話を前々回に戻しますが、
温羅一族は、倭国大乱の時代、とてつもなく強くて、なかなか倒すことができなかった一族ですよね。
天皇が4代変わって、やっと討伐することができたわけですが、その様子が「桃太郎伝説」という物語となり伝えられています。
この温羅一族は、今の岡山地方である「吉備国」を支配している「鬼の一族」だ言われて恐れられていました。
製鉄の技術を持ち込んで、吉備国を発展させた渡来人だとも言われています。
朝鮮半島からの「百済渡来説」や「新羅渡来説」などのほか、九州から来たとう説もあります。
海外からやってきた渡来説が濃厚だとされているんですが、製鉄技術(たらら技術)を持っていたことから、出雲から来たという説も感じさせるといわれています。
けれど、記紀には、温羅一族に関する記述は一切ないんです。
ただ、
「第10代崇神天皇の時代に派遣された『四道将軍』のひとり吉備津彦が吉備に送られた」
という記述があることから、この時に温羅一族を倒して吉備を平定したのではないかと考えられています。
記紀に描かれていケースは、ほとんどが
日本の歴史的には隠したい
という出来事になるため、温羅一族のことは隠したい存在であったこと考えられます。
けれど、孝霊天皇の兄の名前にも、息子の名前にも「吉備」の文字が入っていることから、吉備を平定するために天皇家が戦っていたことは間違いないでしょう。
さらに岡山には温羅一族の伝承が各地で残されており、さらに温羅一族の拠点だったとされる「鬼ノ城」というお城まで残っているんです。
なので、温羅一族は間違いなく存在したと思われるのですが、記紀にも記載がないし、正統竹内文書でもぼかされた存在であるため、その実態は良くわかっていないんです。
正統竹内文書の口伝では、
「孝元天皇の時代に娘の卑弥呼ことモモソヒメが祭祀王としてトップの座に就いた」と伝えられていますが、孝元天皇の次の代の開化天皇の時代、さらに次の崇神天皇の時代になっても、卑弥呼は祭祀王を務めていたとされています。
つまり、おばあちゃんになっても祭祀王として君臨していたということになります。
また、魏志倭人伝での記述では、
倭の国には一人の女子がいて名を卑弥呼という。年齢は高くなっていたが結婚はしていない。鬼道に通じており妖術によって人々を幻惑し導いていた。卑弥呼が亡くなると、また男の王が立つが、国中で争いが起こり、1000人以上が死んだ。そこで再び卑弥呼の宗女(一族又は宗派の女性)である13歳のトヨという女の子が王となったことで国は治まった
と記されています。
つまり卑弥呼ことモモソヒメが亡くなると、また男をトップに立てて国が荒れてしまったんですね。
これが崇神天皇の時代なのです。
正統竹内文書の口伝では、この後に王となった「トヨ」の正体は、
崇神天皇の娘「トヨスキイリヒメ」
だと伝えています。
卑弥呼が亡くなって、トヨが王として再び君臨するまでの間、第二次倭国大乱が起こり多くの人が死んだと伝えられていることから、かなりの混乱が生じていたものと考えられます。
また、崇神天皇の母親というのが「物部系」の血筋になることから、この時代に大きな政権の変動があった可能性がかなり高いのです。
ここで、崇神天皇について調べますと、記紀にはかなり激しい経歴が記載されています。
まず、即位して3年で、都を
三輪山西麓の瑞籬宮
に移しています。
4年目で
「我々は万世一系である」
と謡ったと記されています。
つまり、
自分達はアマテラスから続く万世一系の家系である
と高らかに宣言しているのです。
さらに即位して5年目に
とんでもない疫病が蔓延して人口が一気に半分になった
と記されています。
この記述は、本当に疫病が発生したのかもしれませんが、卑弥呼が亡くなった後の第二次倭国大乱により人口が半分になった可能性があるかもしれないんです。
記紀では、
「大物主」と「倭国の祖神である倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)」
を祀らなと、この禍はおさまらないとも記されているのです
さらに、
倭国の祖神を祀るために「オオタテネコ」という子孫を探し出して祀らせたところ、この禍は収まった
と記されているのです。
倭国というのは、当時「出雲」を表している呼び方であるとともに、古事記には「オオタタネコ」は「意富多多泥古命」という字で記されており、名前に「富」の字が入っていることから「出雲国の王家の血筋」を表していることになります。
つまり、「倭国の祖神」を祀ったオオタタネコは出雲族だったということになり、出雲の神様を祀ったことで戦争が収まった、あるいは疫病が収まったということになるのです。
第一次倭国大乱の際も、出雲国の王族である母を持つヤマトトトヒモモソヒメこと卑弥呼を王に立てたことで戦争が収まったというやり方と、ほとんど一緒のやり方ということになりますよね。
ただ違うのは、卑弥呼の場合は、第一次倭国大乱で乱れていたいくつかの国をまとめて収めるという、総大将的な存在で祭祀王として君臨したけれど、第二次倭国大乱の場合は、オオタタネコは男性である上に、神社の神主という立場になることから、祭祀王として君臨したわけではなく、卑弥呼の時とは規模が違い過ぎることになります。
さて、第二次倭国大乱(あるいは疫病)が収まった後、崇神天皇は日本を一気にまとめるために、「四道将軍」を全国に派遣することとしました。
四道将軍は、
・孝元天皇の第一皇子である「大彦」
・大彦の息子である「建沼河別(タケヌナカワワケ)」
・孝霊天皇の皇子である「吉備津彦(桃太郎)」
・開化天皇の孫「丹波道主(タンバノミチヌシ)」
の4人になります。
4には、それぞれ
大彦は北陸にあった「越国」に派遣
吉備津彦は「吉備国」
建沼河別は「東海道」に派遣
丹波道主は「丹波国」に派遣
されました。
孝元天皇の息子から、次の次の天皇である開化天皇の孫までいることから、ここから見て取れることは、時系列がめちゃくちゃということです。
記紀のこの時系列を無視した記述から推測されることとしては、
大和朝廷と近隣諸国との長い戦いを、この「四道将軍」の中に一部にまとめた
ということが考えられます。
つまり、記紀に記されていることは、様々な時期の出来事を1つに凝縮してまとめて描いているパターンが非常に多いのです。
なので、この四道将軍というのは、崇神天皇の時代に
「吉備の国の他にも、越国、東海道、丹波の国にも敵がいて戦っていた」
ことを表していることになります。
※ 丹波の国については、大化の改新の後に但馬国、丹波国、浦島太郎の故郷である丹後国の3つに分けられたのですが、この時代の丹波の国というのは、これら3つがすべて含まれた超大国でした。
卑弥呼が死んで再び混乱となった倭国が、この時どこの国と闘っていたのかということが、この四道将軍の派遣から読み取ることができるのです。
さて、この四道将軍ですが、この中で「越国」に使わされた孝元天皇の息子の「大彦」については、浦嶋子と繋がる人物になるのですが、歴史的に見てもかなり重要な存在とされています。
記紀の中で記されている「大彦」については、
第八代孝元天皇の第一皇子になり、彼の異母兄弟である
武埴安彦命(タケハニヤスヒコノミコト)の反乱
を防いだ人物として記されています。
彼の父親の孝元天皇の時代に、卑弥呼をトップに立てたことで、第一次倭国大乱が収まりました。
卑弥呼は、第七代孝霊天皇と、古代出雲王族の姫であった「倭国香媛」との間に生まれた娘になるので、彼女には古代出雲族の血が流れていることになります。
そして、卑弥呼からすれば甥にあたる「大彦」も、実は古代出雲族の血が流れているんです。
記紀では、倭国大乱が平定された後、
「崇神天皇の時代に大彦は四道将軍のひとりとして任命され越国に使わされ、息子の建沼河別と福島県の会津地方で落ち合った」
と記録されています。
この出来事から、会津という地方の名前になったとも言われているのですが、なんと! 子の後、大彦と息子は大和に帰らずに、東北(古代出雲)に住むようになってしまったのです。
孝元天皇の第一皇子と、さらにその息子は、当然ながら次の代の皇位継承者であるはずなのに、大和から出て東北に住むようになってしまうというのは、いったいどういうことなのでしょうか?
(第九代天皇は、孝元天皇の第二皇子である開化天皇が王位継承しています)
ここで思い出してほしいのですが
東北地方に逃れて「日高見国」を建国したという人物が、過去にいましたよね?
そうです。何度も私のブログに出て来た「富ノ長髄彦」です。
以前、埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には、出雲国の王家を意味する「富」という字が入った「意富比垝(おおひこ)」という文字が刻まれていることから、「大彦=出雲国の王家なのではないか?」という話をしました。
記紀でも、この大彦の子孫が、長髄彦の子孫の「安倍氏」になると記されています。
安倍氏は、元々は古代出雲族であったけれど、大和との戦いに敗れて蝦夷となり、そこから這い上がって安倍氏となった一族です。
大彦も長髄彦も、どちらも子孫が「安倍氏」になると記されており、どちらも東に追いやられて国を作っています。
これらのことから、大彦は古代出雲国の王家の一員であったことは、ほぼ確定だと言えますし、出雲王族の血を引く大彦は、大和朝廷から排除された可能性が高いと推測されるのです。
そして、何度も言いますが、記紀は時系列がめちゃくちゃであり、いくつかの時代に起こった出来事をあたかも1つの出来事のようにまとめて記しているパターンが多くみられることから・・・・
大彦 イコール 長髄彦
なのではないか? とも考えられるのです。
とうことで、再び頭が混乱してきて、謎が深まる一方なのですが、長くなってきましたので、この続きは次回にお話したいと思います。
★ 龍族の女王源九郎とよさんのブログ
とよさんがタイに来る前に、神様から与えられた貴重な体験として、
源九郎稲荷神社という荒廃した神社を復興された
ことについては、その活動記録のサイトを立ち上げられています。
このサイトに掲載されているブログには、とてもたくさんの不思議なお話が紹介されています。
私のブログを読んでくださる方には、是非同時に読んでいただきたいと思います。
そして、とよさんがしてきたような小さな小さな活動が、多くの人の心に愛と慈悲を取り戻すことに繋がるのだと思っています。
源九郎稲荷神社~復興への道~
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