この建物は宿ではなく、路地へと入る。
突き当たりに、めざす「矢指ヶ浦温泉館」はあった。
中へ入って声をかけると、奥から70がらみの婦人が現れた。
「宿泊ですか?あら、お早い」
などと言われ、とりあえず謝る。
チェックインは15時からで、予定到着時刻は16時と入力していた。
「お仕事の方は、だいたい予定より遅くなるんですけどね」
などとも言われたので、仕事ではないと弁解し、再度謝る。
階段を上がってすぐの部屋に通された。
夕食の希望時刻は18時と伝え、了承される。
朝食は7時半から、と言われ、シゴトで間に合わないので不要と伝えた。
返金などはできない、と言われる。
当然、そんなことは求めていないので、結構です、と言う。
そのかわり、6時半頃には風呂に入れるようにしておく、と言ってくれた。
通常は風呂は7時から、朝食は7時半かららしい。
温泉といっても源泉の温度が低いために加温なので、24時間入浴できるわけではないことは事前学習済みだった。
とりあえずドタバタとした手続きが終わったので、まずは温泉に入ることにする。
部屋を出た窓際にはいくつもの壺?が置かれていた。
1階奥の浴室に行く。
先客が一人、いた。
「こんにちは、失礼します」
と挨拶して入る。
無視される。
日帰り客らしい。
比較的若いと思しき巨体の輩で、浴槽の縁に座ってずっとスマホを眺めている。
肥満体ゆえ鼻息が荒く、浴室内に響き渡る。
広くない空間で、なんとなく居心地が悪い。
落ち着かないので、数分だけ温泉に身を浸した上で、早々に風呂を出た。
この画像は、夜あらためて入ったときに撮影したもの。
年季の入った温泉分析書は脱衣場ではなく、浴室内に掲げられていた。
「冷鉱泉」とある。
ここは、イメージとしては「鉱泉宿」と呼ぶ方がふさわしい気がする。
なお、温泉と鉱泉の違いなどは、専門筋に任せることにしよう。
18時に夕食が運ばれてきた。
あのご婦人は女将のようだ。
ひとりで切り盛りしているのだろうか。
瓶ビールと冷酒も頼んだのだが、瓶ビールは部屋へ入るなりひっくり返して、再度運んできた。
いろいろと、落ち着かない。
気を取り直して、いただく。
金目鯛の煮付けは一尾丸々だった。
天ぷらの量も多い。
山形の酒だという純米酒の「雪むかえ」は食事に合う。
いろいろあっても、良いことがあれば気分はどうにでもなる。
酒が終わろうかという頃に、ご飯をいただく。
運ばれてきたのはご飯だけではなく、こちらの「若女将」も。
何の許可を得るでもなく、胡坐をかいている自分の膝の上に乗ってきた。
ある日突然、この宿に現れた猫だという。
失礼なことはしないと思うが、もし何か悪いことをしたら叱ってください、などというコトバを残して、本当の女将は部屋を出て行った。
そんなわけで、しばし猫と戯れながら酒を呑み、ご飯を食べる。
動物と関わる機会がほとんどないのだが、なかなかかわいい。
ほど良い重みと、生きている温かさが伝わってくる。
いったいいつまでここにいるのだろうか、と思っていたが、そんな気持ちを察したのだろうか。
20分あまりした後、急に眼を見開くとスタスタと扉の方に歩き始めた。
お勤め終了、ということなのだろうか。
扉を開くと、何事もなかったかのように階下へと去って行った。
食後、休憩の後に風呂に入る。
今度は独り、静かにゆっくりと浸かれた。
身体の中からポカポカする。
部屋に戻ると、布団が敷かれていた。
タオルケットは外してから、就寝した。
暑くて眠れないのは、温泉宿ではよくあることだからだ。
正解だった。
心地よい眠りの後、朝を迎えた。
6時半過ぎに風呂に入りに行く。
女将は起きていて、テレビを見ていた。
ゆっくりと朝風呂に入れるのは嬉しい。
朝食以上の価値がある。
身支度を整えた後、7時を回って宿を発つ。
前夜の瓶ビールと冷酒代は1,420円と言われる。
2千円を渡す。
「ありがとうございました」と、520円を返される。
え???
「あの、580円ではないですか?」
「は?」
2,000-1,420は、自分の計算では580である。
女将は、
「どうすればいいのかしら?」
と、慌て始めた。
100円硬貨を何枚か用意してくれようとしていた。
面倒なので、500円だけいただいて靴を履いた。
「なんか、バタバタしてすみませんでしたね」
と、去り際に声をかけられた。
たしかに、最初から最後まで、なんとなく落ち着かなかった。
「千葉県温泉第一号」の宿である。
おおらかな気持ちでいれば、きっと快適な宿のはずだ。
目標にすべきは、あの猫であろう。