吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』が最近脚光を浴びていると、よく見聞きします。
漫画化もされており、幅広い年代に支持されているらしいです。
自分がこの作品を読んだのは、30年以上前。
高校入試で合格した後、入学までの課題として読書感想文の提出が課せられていたのですが、その課題図書が『君たちはどう生きるか』でした。
「どう生きるか」は、時代を超えて普遍的なテーマであるのでしょう。
先週、懐かしい顔ぶれでの会食に参加するため、東京に行きました。
大学卒業後に新卒で入社した会社の同期の面々。
うち1名は何日か前に熱海に遊びに来てくれた友人だったので厳密には懐かしくもなんともない顔ではありました。
3年たらずで退職した会社ではあるのですが、社会人の第一歩を踏み出したときの同期というのは、不思議な連帯感があります。
しかし、年齢を重ね、それぞれに異なるキャリアを積んでいくことで、明確に違いを感じるのも事実です。
他の3名は皆、今でも別の外資系企業で着実にキャリアアップをし、活躍をしているようです。
そんな堅実な連中から
「お前はこれからどうする気?」
などと問われると、返答に窮します。
どう生きるか、という大きな話以前に、いかに生活していくのか、という現実的なことも考えなくてはいけません。
わかってはいるのですが、なんとなく先延ばししたまま、熱海暮らしもまもなく丸2年になろうとしています。
翌日は、夕方まで予定はありませんでした。
悶々とした気分は、今にも雨が降りだしそうな曇天のせいだけではなかったはずです。
なぜだか、高校生のときに歩いた街に行ってみたくなりました。
もっとも、今では高校はその街にはなく、校舎の跡地にはマンションが建てられています。
歩き慣れていたはずの道も、随分と長く感じられました。
『君たちはどう生きるか』を読んだ後に入学した高校での3年間は、自分の人生の中では一番つらく、苦しい時間でした。
友達らしい友達も出来ませんでしたし、高校生として楽しかった思い出はほとんどありません。
卒業アルバムの自分の写真を見れば、暗く、そしてなにか怒りに満ちた表情をしています。
さまざまな葛藤が自分なりにあったのでしょう。
しかし、ふとしたことで話を交わすことになった担任でもない先生から、
「君の活躍の場は、高校ではなく、むしろ大学にある気がする」
といった言葉に、大いに勇気づけられたものです。
事実、活躍などはしないまでも、その後の大学では勉強、サークル活動、アルバイト、趣味など、たしかに充実した時間を過ごすことが出来ました。
くすぶっていた高校3年間も、少しは意味があったのかもしれないな、と今では思えてくるのです。
この日、大学のゼミでゼミ長を務めていた友人から久しぶりにメッセージが来ました。
地方の大学で教授をしている人物です。
非常勤講師がいなくなるのでやってくれないか、というお誘いでした。
学歴も職歴もパッとせず、ましてや大学院にも行っていない自分などで務まるのか甚だ疑問ではあるのですが、声をかけてもらえるだけでもありがたいことです。
大きな理想でも、目先の現実でも、「どう生きるか」は死ぬまで考え続けなくてはいけないようです。