最初このタイトルは「競馬血統の手引き・のようなもの」とつけました。「の・ようなもの」は森田芳光監督の最初の作品。
監督はリアルバースデーの一口馬主として知られていますが競馬愛が純粋で記憶に残っています。「文庫版/山口瞳/草競馬流浪記」の後書きは楽しかった。「競馬!愛さずにはいられない」は自分の大事な本でダービーなどに行くたびに「競馬場で読む」をシバリにしているためまだ読み終えてません。
自己流血統論のタイトルに「のようなもの」をお借りしたのは何となく自信がないから?というかあまりこういう風なことが書かれたのを見たことがないからでしょうか。ま、いいか、行ってみましょう。
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競走馬血統論の物足りなさ
さて血統について書くにあたってまず現況書かれているモノについての感想を書き留めましょう。
シロートでも血統論を振りかざす自称クロートでも巷にあふれる「血統論」は物足りません。シロートはゲームに毒されているのでしょーがないとこもあるけど。予想家、物書きがヒドイと思いますね。
巷の血統論は競馬予想に過去データしか使えない人と一緒のように見えます。テシオ理論風に粉飾した過去データでしかないような。中山ダート1200はミスプロ系がとか、○○牝馬には○○系種牡馬が合うとか。
馬券でもそうなんですが、こういうシチュエーションなら○○が有利な傾向があるというのは、それを意識しているか無意識で感じるかは別として結局多数派の後をついて行ってるだけなんですよね。実社会でそうしているからかもしれないけどそういう姿勢は競馬の根本と相容れない。
競馬の粋は独自の道を行くことに尽きます。
「人の行く裏に道あり山桜」
この句は千利休作とか最後が「花の山」とかの説もありますが、それは株式投資界で言われる話。千利休と権威を最初に持ってきて花の山と現世的な分かりやすいご利益を結びにする辺りが金の亡者の世界らしいです。
筆者の記憶では太田道灌作。花の山という現世利益でなく山桜という自己充足が大事なんですね。
真のギャンブラーは孤高。過去に見てきたカッコイイ競馬のプロは皆独自の道を行ってましたし自分もそうやってきました。
カッコイイ、カッコワルイだけでなく、過去データだけしかない人間には大きなハンデがあります。それは配当が低い世界で遊ぶことになるということ。そうですよね、多数派の世界なわけですから。1倍台のオッズだけでなくどんなオッズでも根底が過去データの世界は相当に割が悪いと心得なければなりません。
博打は「むこうぶち」
ムコウブチという言葉も今は意味が伝わらなくなってきました。今調べるとせいぜい「鉄火場の客」としか出て来ません。本来は賭場で胴元や多数派を相手に「向こうをはって」勝負する孤高のギャンブラーを意味します。
JRA-VANなんかで競馬する人はしょせんお客さん。
競馬も人生もカッコヨクいきたいものです。
結局血統論も同じ。
血統の正しい基礎を身につけ、その上に自由な推理とイマジネーションを展開する。それが競馬。その基礎的な考え方を次回から見ていきましょう。
(続く)