空閨残夢録 -15ページ目

空閨残夢録

上層より下層へ 
中心より辺境へ 
表面より深淵ヘ 
デカダンよりデラシネの戯言





 米国で1861年から65年にかけて南北戦争が勃発した。米国南部諸州の11州は綿花栽培を中心とした農業のプランテーション経済が盛んで、これをヨーロッパに輸出する自由貿易圏で、黒人奴隷の労働力に支えられた農園経営システムであった。

 米国北部23州の合衆国側は、1812年から14年の米英戦争により英国工業製品の途絶で急速な工業化が加速する。欧州製の工業製品より競争力を優位に保つため保護貿易を模索する。また流動的な労働力を必要としたために奴隷制とは相いれない状況となる。

 南部における貿易の自由化と奴隷制擁護、北部の保護主義と奴隷解放路線で、米国はやがて南北で対立する構図が生まれ、やがて内戦となるのであった。それが米国の南北戦争の構図であった訳だが、勝利は北部が治めて南部は敗退することになる。

 時を同じくして、隣国はメキシコで長くスペインの植民地支配から独立革命を経て独立に成功したが、米国との軋轢や欧州の侵略に、たびたび他国の占領を余儀なくされる歴史はつづく。

 1866年に、南北戦争で敗れた南部の兵士やならず者の群れがメキシコに逃れて野望と欲望を露わに流入して来る。それは、ナポレオン3世の傀儡でオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟のマクシミリアン1世がメキシコの帝位につけられる。

 メキシコ皇帝マクシミリアンは抵抗勢力や革命軍の反撃で不安定な支配をメキシコで余儀なくされていたが、ナポレオン3世はメキシコ支援にやがて手をこまねき次第に撤退していく。

 そこで、メキシコ皇帝は欧州からの傭兵や米国の南部敗残兵など、その他にもならず者まで金で雇い抵抗勢力と徹底抗戦の構えをみせる状況なのだが、1954年の米国映画で西部劇の秀作『ヴェラクルス』は、そのような背景から史実と虚構を交えて物語化した映画作品である。







 欲望と野望を露わにした無法者の群れが米国からメキシコに流れる1866年、映画『ヴェラクルス』は冒頭で、たった一人で砂漠を流れるゲーリー・クーパー演じるベン・トレーンの姿を銀幕にまずは映す。

 南軍司令官ピエール・G・T・ボーリガードの副官で、その勇士であったトーレン大佐は、メキシコ・シティを目指す途次に馬が片足を骨折してしまう。折よく、馬がいる農場で馬を買う算段で寄ると、そこにバート・ランカスター演じるお尋ね者のジョー・エリンがいた。

 ジョーからベンは馬を買いメキシコ・シティーを目指すが、購入した馬はフランス政府軍からジョーが盗んだ馬で、ベンも政府軍から追撃されるハメとなる。政府軍とお尋ね者ジョーの姦計から逃れてベンは或る酒場に立ち寄ると、運悪くジョーの配下たちと出くわす事になる。

 やがて、ジョーの一味とベンは連携してメキシコ・シティーに傭兵として雇われる目的の為に仲間となるが、旅の途次に南部からの流れ者たちに絡まれたパパイア売りの娘を助けることになる。このパパイア娘はニナという名の掏りでサリタ・モンティールが演じる艶ぽっいイイ女でシビレてしまう。


 パパイヤはメキシコ南部を原産とする常緑性の小高木である。多くの熱帯の国々で栽培されており、日本では、沖縄で人家の庭などに自生している。パパイア(パパイヤ、蕃瓜樹、英語 : Papayapapawpawpaw 、学名:Carica papaya)とは、パパイア科パパイア属の常緑小高木である。その果実も「パパイア」という。「チチウリノキ(乳瓜木)」、「モッカ(木瓜)」、「マンジュマイ(万寿瓜)」、「パウパウ」、「ポーポー」、「ママオ」、「ツリーメロン」などと呼ばれることもある。








 さて、映画『ヴェラクルス』のあらすじであるが、ジョーとベンとその仲間はフランス貴族のデ・ラボルデェル率いる政府軍と出遭い、反政府軍の包囲を起点で突破して、皇帝の傭兵としてベンとジョーの一派は雇われることになった。

 ベンとジョーの一派はメキシコ・シティーで皇帝と謁見するが、デニーズ・ダーセル伯爵令嬢をヴェラクルスまで無事に送る仕事を任じられる。

 ヴェラクルスはメキシコ湾西岸最大の港湾都市で、要塞のある港であった。そこへフランスに帰還する令嬢を反政府軍の魔手から無事に送り届ける仕事を多額に引き受けたベンとジョーの一行は、旅の途中で、伯爵令嬢の馬車(ワゴン)よりも、二台の二頭立ての荷馬車(カート)が軽いことに気が付く。

 婦人の乗った馬車には多額の金塊が隠されていたのだが、これはメキシコ皇帝がナポレオン3世の支援が遠ざかった為に、フランスに用意した金塊だった。この軍資金で欧州からの支援を期待して運ばれていたモノを、伯爵令嬢は強奪を計画していたが、この計り事を察したベンとジョーは金塊強奪に一枚加わることになる。

 されど、これを運ぶ侯爵は更に上手で、金塊の強奪を計る婦人やならず者からの魔の手をまんまと逃れる。そして、ヴェラクルスの要塞に皇帝からの使命を全うする侯爵は、反乱軍の攻撃から備えるのであった。

 やがて革命のための反乱軍の情熱と誠意にベンは傾倒して、金塊を一人で強奪するジョーと一騎打ちを演じることになるラストシーンは西部劇史上の名場面となる。








 『ワイルド・アット・ハート』(Wild at Heart)は、デビッド・リンチが1990年に映画化してカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞した作品。原作はバリー・ギフォード(1946-)の同名小説だが、物語に抱きこまれていた暴力や狂気の要素が映画では全面に強調された映像になっている。
 
 原作の小説では、恋人のセイラーとルーラのお互いに尊重しあう関係に共感して優しい気持ちになれるし、二人のロマンに、二人の愛し合う姿に、感情移入して高揚感すら抱くであろう。バリー・ギフォードのビートニクなパルプ・ノワールは、グロテスクでシュルレアリステックな映像表現のデヴィット・リンチの作風よりは、クエンティン・タランティーノの『パルプ・フィクション』の表現感覚に近いとも感じる作風でもある。

 ギフォードの小説の『ワイルド・アット・ハート』のセイラーとルーラの物語は、続編の『セイラーズ・ホリデー』へとつづき完結するが、サザン・ナイト・トリロジー・シリーズの南部三部作シリーズの短編集『ベイビィ・キャット・フェイス』で、セイラーとルーラが出逢った頃の物語や、セイラーの刑務所での体験談などが収録されている番外編もある。







 さて、映画『ワイルド・アット・ハート』であるが、やはりデビッド・リンチの作品では個人的には最高にたまらなく好きな作品でもあり、何度も繰り返してビデオで観ているけれども、この映画の脚本にはギフォードも携わっているようで、セイラーとルーラの会話は小説とほぼ同じに物語は進捗する。そしてルーラが“オズの魔法使い”の物語の要素を会話に頻繁に引用するのが映画の脚本の特徴でもある。

 ルーラとセイラーの二人の会話だけではなく、映画の場面に現れる魔女の魔法の水晶玉、東の悪い魔女、南の良い魔女も画面に夥しく出てくる。ルーラが紅い靴の踵をドロシーのように3回ならす場面、愛犬トトのことを語る老人、セイラーが息子のペイスに渡すライオンのぬいぐるみなど、オズの魔法使いのオマージュが全編に鏤められている。

 セイラーが着ていた蛇皮のジャケットは、テネシー・ウィリアムズの戯曲の『地獄のオルフェウス』を、テネシー・ウィリアムズが自ら映画用に脚本化した『The Fugitive Kind』が1960年に映画化されていて、その映画の中でマーロン・ブランドが蛇皮の服を着ていたオマージュでもある。

 テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams. 1911-83)といえば、戯曲の『ガラスの動物園』、『欲望という名の電車』、『熱いトタン屋根の猫』などの南部三部作がよく知られているし、これら作品はすべて映画化もされている。

 1960年にシドニー・ルメット監督により映画化された、邦題が『蛇皮の服を着た男』は、脚本の原題はテネシー・ウィリアムスが映画用に『The Fugitive Kind』としたが、原作はテネシー・ウィリアムズの戯曲『地獄のオルフェウス』だ。この戯曲を含めてテネシー・ウィリアムスの映画南部三部作の番外編ともいえる作品で、南部四部作ともいえよう作品。

 『蛇皮の服を着た男』は、主演はマーロン・ブランドで、蛇皮のジャケットを着たニューオリンズのギターリストである30歳のミュージシャンはバル・ゼービアを演じている。彼は酒場で暴力沙汰を起こして拘置所に拘留され、やがて町を出て放浪するが、或る南部の町でカタギになり生活をする決意をする。

 彼は旅先で、南部の田舎町ツーリバースで、或る夜に車がエンコしてしまい、保安官の家に一夜を温情で泊めてもらう。保安官の奥さんの好意で町の雑貨店に就職を斡旋してもらい就労するバルであったが、勤めたお店で、偏見と因習にみちた土地での悲劇的な末路をやがて迎える。

 この物語は、或る南部の田舎町での差別と偏見と因習のために葛藤する女たちのドラマなのだが、そこへ流れ者の野性的な詩人のような男がやってきて物語は錯綜する人間劇である。この男は蛇皮の服を捨てて、社会に順応しようとするが、プリミティブな野生の方向へ牽引する若い女、コミュニティーに受け入れながら私的な欲望を男に向ける夫人など、さらに女たちをめぐる男社会の視線と葛藤が大まかな物語のあらすじとなる。

 つまり、『ワイルド・アット・ハート』という映画は、B・ギフォードの、『蛇皮の服を着た男』へのオマージュであり、『ワイルド・アット・ハート』のセイラー役のニコラス・ケイジが着ていた蛇皮のジャケットは、あのマーロン・ブランドが着ていた服と考えて思わしいのである。テネシー・ウィリアムズの『The Fugitive Kind』と、ライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』を読んでいたら、デヴィット・リンチの映画『ワイルド・アット・ハート』は、更に面白く観られるであろう。







 さて、、『ワイルド・アット・ハート』のあらすじを以下に述べつつ閑話放題としておこう。映画の冒頭の映像であるオープニングは、マッチを擦るクローズアップ場面、このマッチを擦る場面は映画のなかで何度も登場する印象的な映像でもある。


 次に炎が燃え上がる場面、この火災の映像も何度もカットで登場する。物語はアメリカ南部ノースカロライナのケープフィアーからサウスカロライナ州境のどこかで開催されているパーティ会場から始まる。


 恋人のセイラー・リプリーとルーラ・ペース・フォーチュンは、階段を降りパーティーの開場を去ろうとしていたが、そこへ黒人のボブにナイフで襲われて、それを素手で過剰に防衛して故殺してしまう。死んだボブを金で唆してセイラーを襲わせたのはルーラのママだった。ルーラのママは、ルーラの恋人セイラー殺しに失敗したわけである。


 ボブ殺しでセイラーは22ヶ月と18日後に矯正施設から保釈されたが、恋人のルーラに逢いに行くも、またしても、ルーラのママに二人は仲を裂かれてしまう。ルーラはもう20歳になっていた。そしてセイラーは22歳となり、ルーラは家出を決して、セイラーは執行猶予中でありながらも、二人は街を出て、世界のはてまで逃走する。


 ここから映画の物語はアメリカ深南部のロードムービーとなり、二人は1958年型ビュイック・リミテッドでニューオリンズをまずは目指す。この二人をルーラのママであるマリエッタ・ペイス・フォーチュンは、友人のシャーロットの私立探偵ジョニー・ファラガットに頼み二人の姿を追わせる。


 ジョニーはマリエッタからセイラーを殺すように依頼をするが、ジョニーはそれを断った。ただしジョニーはセイラーからルーラの奪還を約束してニューオリンズへ走り二人を追う。


 マリエッタは暗黒街の顔役のマルセル“クレイジーアイズ”サントスにセイラーの暗殺を依頼する。しかし、それには条件があり、ジョニーも一緒に殺すという事だった。殺し屋の組織を探偵のジョニーに嗅ぎつけられたくないのが、その理由だった。


 マルセルは殺し屋の元締めミスター・レインディアにセイラーとジョニー殺しを依頼する。ミスター・レインディアはニューオリンズのフアナ・ドゥランゴに命じて、レジーとドロップシャドーの3人でジョニーを始末する件を引き受ける。


 ミスター・レインディアは、テキサスのある町に暮らすフアナの双子の妹ペルディータ・ドゥランゴにセイラー殺しを命じた。ジョニーは3人の刺客に後頭部から銃弾を近距離で受けて落命してしまう。


 テキサス州のビック・ツナの町にセイラーは、昔の仲間であったペルディータ・ドゥランゴにマルセルやマリエッタの動向を訊きに行くが、実はセイラーは昔にマルセルの運転手をしていたのだ。ルーラのママであるマリエッタは夫であり、ルーラのパパを、マルセルに殺させたことをペルディータから聞き、ルーラのママの暗黒面をセイラーは知ることになる。そして、ルーラのママに命を狙われる事実を知る。


 さてさて、これ以上のあらすじを述べると物語のミステリー性を暴いてしまうので止めておこう。セイラーとルーラはビッグ・ツナの町にあるモーテルで住人たちや流れ者と交流するが、そこでボビー・ペルーという元海兵隊の奇妙な男とセイラーとルーラは出逢う。

 この場面で飲まれるウィスキーが“ジャック・ダニエル”である。このウィスキーはテネシー州で製造されている蒸留酒なのだが、お隣のケンタッキー州で作られているバーボン・ウィスキーとは区別されて、バーボンとは呼ばずに“テネシー・ウィスキー”と呼ばれている南部の酒だ。


 さてさてさて、ルーラのママであるマリエッタは娘への過剰な偏愛だけではなく、自分の夫殺しを知っているかもしれぬセイラーをこの世に生かしてはおかなかったのであるが・・・・・・


 ビック・ツナに着いた夜にモーテルでボビー・ペルー(ウィレム・デフォー)という元海兵隊員と逢い、その翌日にボブから飼料工場の金庫から5000ドルの現金強奪の犯罪に誘われる。40ドルしかなく、おまけに妊娠したルーラの事と未来を考えると心揺らぐセイラーだったが、ボビーの計画する犯行に加わるハメとなる。


 この現金強奪には失敗してしまうが、この銃撃戦が凄惨でたまらなく悲惨な場面。サム・ペキンパーの暴力描写を超えてグロテスク過ぎるくらいの演出なのである。


 私立探偵ジョニー・ファラガットが椅子に縛り付けられて殺されるシーンも緊迫して凄い場面。殺人が凄いというより、殺しを行う女のサディズムとエロティックな昂揚が臨場感として場面に展開して肝が冷える。


 原作ではジョニーは殺されないし、晩年にマルセル・サントスとマリエッタの3人で暮らすことになるのだが、映画では三角関係からもジョニーは殺されることになる。


 原作と全く違うのは最後の場面であろう・・・・・・、映画ではハッピーエンドで終わる意外な感動的な場面でもある。この終幕の前にセイラーは9人の暴漢に襲われ気絶する。意識を失ったセイラーは、夢の中で南のよい魔女グリンダに助言される。




-------------------------------------------------
 (セイラーは弱気だった。)


 「俺のハートはワイルドだ・・・・・・」(ルーラは外の世界がワイルドなのを嫌悪している)


 (よい魔女は述べる。)


 「本当にハートがワイルドなら夢を目指して戦うのよ、愛に背を向けないでセイラー」



 「・・・・・・」



 「愛に背を向けないでセイラー、愛に背を向けないでセイラー」



-------------------------------------------

 アンジェロ・バダラメンティの音楽も最高の出来栄えで、ジャズ、ロック、オールディーズからスラッシュ・メタルな曲まで幅広く充実している。なかでも主演のニコラス・ケイジが歌うエルビス・プレスリーの『ラブ・ミー』と『ラブ・ミー・テンダー』は感動ものである。


 デビッド・リンチの前作『ブルーベルベット』で、薬中のフランク役だったデニス・ホッパー、粋なオカマのベンも、とてもミゴトなイカレぷっりの演技だったが、『ワイルド・アット・ハート』ではボビー・ペルー役のウィレム・デフォーと、フアナ・ドゥランゴ役のグレース・ザブリスキーが強烈に怖い衝撃的な演技力であった。

 はてまて、この映画のセイラーとルーラの二人の熱いハートは深南部の荒野を焼き尽くす物語として、テネシー・ウィスキーよりも熱度は熱く語りつがれる作品である。



 



 1980年に、オーストリア、西ドイツ、フランス合作による『エゴン・シーレ(愛欲と陶酔の日々)』は、日本で公開されたのが1983年である。  

 この映画を観終わってまず思ったのは、マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』である。映画の演出的な手法がデュラスを思わせたのである。1985年に俳優座シネマテンで本邦初公開された『インディア・ソング』は、デュラスの原作を自ら監督して映画化された1975年の仏映画。

 そのデュラスの作品に、『エゴン・シーレ』の映画で主役のマチュー・カリエールという男優が『インディア・ソング』に出演していた。ボクの直観による二つの映画の接点はそれだけのようだが、詳細については判らない。 





 


 さて、『エゴン・シーレ』であるが、監督はヘルベルト・フェーゼリー、脚本は監督とレオ・ティシャット、撮影はルドルフ・プラハチェック、音楽はブライアン・イーノである。

 キャストは主演にエゴン・シーレを演じる1950年にドイツに生まれたマチュー・カリエール、エゴンの恋人にジェーン・バーギン(1946-)、エゴンの妻にフェリクス・カウフマン。

 劇中の音楽にはメンデルスゾーンとアントン・フォン・プラインチェックの曲に、オープニングにブライアン・イーノの曲が印象深く、全編にイーノによる楽曲が表層にある。





 


 俳優たちは内面を内省的に演じず、情念を抑えて、情動を抑制して、余計な演技をできるだけ縮小して、喜怒哀楽の熱度を半減しながら、ドラマは冷徹なカメラワークで無機的に映し出されていく。

 そのことにより、俳優たちの演技力が眼だけで、動かない表情だけで、セリフのない言葉となって映像化されている。カメラに映し出される自然も人物もそれ故に詩的で美しく描写される場面ばかりだ。

 映画の物語が少々ながら複雑にも思える構造には、主人公の回想、追想、幻想、妄想が時系列を失くしているとこにあろう。また主人公の回想シーンなのか、回想されている登場人物の妄想なのか判然としないミステリアスな場面もある。

 それが映画冒頭の出来事と、その事件からエゴンが投獄される物語の序破急の序である最初の展開にある。破は、エゴンの恋人のヴァリー・ノイツィールとの恋の破局にある中盤で、急は、エゴンは結婚して軍に徴兵され、やがて美術界で認められた矢先に28歳で亡くなる結末部にある。

 序の部分では、15歳の少女タチアナが物語に大きくエゴンの人生を作用する。破では、ヴァリーのエゴンに対する献身と、エゴンによるヴァリーへの裏切りが錯綜する。急では、エゴンの結婚と成功そして第一次世界大戦の渦に巻き込まれる姿が描かれる。





  


エゴン・シーレ(1890-1918)は、16歳で絵の才能を見い出され、ウィーン美術アカデミーに入学した。因みに、このアカデミーに一歳年上のアドルフ・ヒトラーが同時期に何度か受験しているが、彼は入学できなかった経緯がある。

 3年後にアカデミーを脱退して、若い画家たちと結成した“新芸術グループ”の名で展覧会を開き、ライニングハウス男爵というスポンンサーを得た。21歳の時に恩師であるグスタフ・クリムトのモデルであり恋人でもあったヴァリーと同棲をはじめる。このヴァリー役をジェーン・バーギンが美しくも鮮烈に演じている。







  映画の物語では、冒頭でウィーンの郊外にあるエゴン・シーレ(マチュー・カリエール)のアトリエがあるノイレンバッハの美しい風景が映し出される。

 ウィーン郊外の森、森の奥に小高い山がある。その森ととても広い平野の境にエゴンのアトリエはある。平野の地平にノイレンバッハの古城が遠く見える。閑散と静かな田舎町の外れにそのアトリエは佇んでいる情景が第一場面である。

 ヴァリーはグスタフ・クリムトのモデルであり愛人でもあったが、恩師クリムトからヴァリーを引き受ける。そしてノイレンバッハでエゴンと二人で静かに生活していた。

 二人は、或る激しく雨の降る夜に、アトリエの外で雨に濡れそぼる少女を見つける。少女を屋内に匿うが、その少女は父親が厳格のため家出してきたらしい。少女はウィーンに暮らすお祖母ちゃんの家に行きたいらしく、その夜はアトリエでヴァリーとベットで一緒に寝て、エゴンはソファーで寝た。

 少女は15歳のタチアナと名乗る娘だが、翌日に鉄道でヴァリーとエゴンはタチアナと三人でウィーンを目指す。しかし、娘は家出を思いとどまり三人でノイレンバッハに戻った。

 エゴンのアトリエにタチアナの父が近所の噂を聞きつけてやって来る。タチアナの父はエゴンを少女誘拐罪で告訴した。やがて官憲がエゴンと彼の絵画作品を押収して拘留される。ここまでが1912年初夏の映画冒頭での出来事となる。

 やがて裁判となりタチアナは、エゴンのモデルとして卑猥な行為を受けたと偽証する。そのためにエゴンは劣悪な環境の拘置所に閉じ込められて精神がやがて破綻していくのであった。

 拘留されたエゴンをヴァリーは献身的に無罪放免を裁判所に届けたり、エゴンの母と姉に力を求めたり、貧しい生活のためエゴンの作品をお金にして弁護士を雇う。

 このヴァリーの献身的な愛はとても美しい。或る日、拘置所へ“オレンジ"をエゴンに与えるために買って、収監された彼の二階の鉄格子のはまった窓へ、そのオレンジを投げ入れる場面では思わず泣けてくる。牢屋の中のオレンジの輝きはまるでヴァリーの愛の輝きそのものである。






 


 牢獄でエゴンは少女タチアナを回想する。ヴァリーとの出逢いを追想する。クリムトのアトリエでヴァリーやモデルたちの姿が思い浮かべる。そして、やがて、精神は懊悩の末に破綻してしまうが、ヴァリーの献身の末に40日以上の収監から解放された。

 再びエゴンは作家活動をはじめる。アトリエにモデルたちを集める。それを少女タチアナが自転車でエゴンのアトリエを通りがかり、モデルの裸の女たちを見る。

 この場面は過去の、つまり投獄前の、嵐の夜に少女と出逢う冒頭の場面より前の出来事。ヴァリーがエゴンに少女を家に匿うときに、「知っている娘?」と質問した時は、エゴンは「知らない娘だ」と答えたが、二人はお互い知っていた事になる。

 映画の冒頭で不安そうな少女の表情が印象深いが、このエゴンとタチアナの出逢う場面の、少女のエゴンに対する笑顔には明らかに愛情がみえる。エゴンも少女に強く惹かれていた。

 物語は過去と現在が交差して回想や幻想が錯綜するが、唐突すぎるくらいにエゴンとエディット(クリスティーネ・カウフマン)の愛の関係がはじまる。エディットもエゴンのモデルとして映画では描かれている。このあたりはリアルさを欠いてみえるかも知れないが、映画を観るものに、想像力を働かせる手法となっている。

 エディットとの関係を知ったヴァリーはエゴンとの別れを選択する。別れにヴァリーは泣く、慟哭したいだろうが哀しみを抑制して泣きじゃくる。この抑えられた涙にジェーン・バーギンの苦悩の演技が悲しみを誘う。

 そして、その後のヴァリーが映し出される短い三つの場面が、悲劇的に、退廃的に、美しくも、哀しい女の姿を浮かび上げる見事な映像である。

 最初のカットはクリムトのアトリエでエゴンとの別離からの再会シーン。二人は遠くでお互い見つめ合う。ヴァリーの手には“アブサン"の入ったグラスがある。胡乱で空虚の眼をしたヴァリーの無表情がアブサンの色合いと同調している。愛を失い緑の酒で満たしきれない悲しみの姿を・・・・・・。

 次は第一時世界大戦にヴァリーは従軍看護婦として志願し野戦病院での場面。ここでヴァリーは看護婦というよりも従軍慰安婦のように性的に男と戯れる短いショットがある。

 そして最後のヴァリーの場面はロングショットで映し出される。横たわるヴァリーは怪我をしているのか病気なのか、まるで死人のように見える。医者の言葉がやがて聞こえる。バリーは末期の梅毒で戦場で倒れた。僅かに生きているのを感じるようなジェーン・バーギンの演技に、苦しくなる、切なくなる、涙が溢れてくる。

 物語は後半に入る。エゴンも徴兵される。彼は後方支援部隊に配属される。軍隊生活でエゴンは妻のエディットが浮気していると妄想して嫉妬で懊悩する。やがて戦役を逃れてエゴンは画家として成功する。

 しかし、当時、流行していたスペイン風邪にエディットは感染して倒れる。献身的に看病するエゴンの姿は妻への愛を痛く感じる。そしてエディットは自分が命が燃え尽きるのを感じてエゴンに最後の愛を求めて情を交える。そのことによりエゴンもスペイン風邪に感染してしまう。

 妻の葬儀に出られず倒れたエゴンもエディットの後を追う。エゴン・シーレ28歳の生涯であった。

 この映画で、銀幕の中で、一際、印象的な女は、少女タチアナではなく、妻のエディットでもなく、やはりヴァリーであろう。ヴァリーのエゴンへ放った黄金色に輝く愛の“オレンジ"と、エゴンの愛を失ったヴァリーの手にしたグラスの、哀しい退廃の緑色の光彩を放つ“アブサン"が印象に残る。




 『リリィ、はちみつ色の秘密』(原題: The Secret Life of Bees)は、ジーナ・プリンス=バイスウッド監督による2008年の米国映画。原作はスー・モンク・キッドのベストセラー小説を原作にする。

 キャストは主人公の少女リリィにダコタ・ファニング、養蜂家のオーガストにクィーン・ラティファ、オーガストの妹をアリシア・キーズ。





 


 1964年、サウスキャロライナ州シルヴァン郊外に、父親と二人きりで暮らす14歳のリリィ・オーウェンスは4歳の時に母を亡くした。父のテレンス・レイ・オーウェンスは桃の果樹園を経営し、家政婦に黒人のロザリンを雇っているが、リリィはロザリンが唯一の友達であり、姉のような存在だ。

 ある夜更けに寝つけないリリィは、部屋中に蜜蜂が群舞しているので、眠っている父を起こすが、父がリリィの部屋に入ると蜜蜂は一匹もいなかった。これをリリィは天使の啓示と後に感じる。

 朝起きるとリリィの部屋に一匹だけ蜜蜂がいたのを、リリィは空き瓶に捕獲して、ロザリンとテレビを見ると、大統領が公民権法案に署名した報道が伝えられる。 

 その夜も寝つけないリリィは部屋から果樹園に駆け出す。桃の木の下を掘ると、そこには空き缶に入れられた母の遺品が入っていた。母の写真、母の手袋、そしてフレームに入った黒い聖母子像を、満天の星空に横たわりリリィはママを想って抱き抱えた。

 翌日、リリィはロザリンと町へ買い物に出かけるが、白人至上主義者たちにからまれてしまいロザリンは怒りを顕にして、男たちに反抗して殴られて警察に連行されてしまう。サウスキャロライナは米国南部でも差別主義の根強い深南部で、公民権運動に反対する保守的白人が多いエリアだった。

 ロザリンは警官の監視下のもとに病院のベッドに拘束されていたが、リリィはロザリンを助けて町から逃走し家出した。リリィはママの遺品の“黒い聖母"のフレームの裏に書かれていた“サウスキャロライナ州ティブロン"の町を、二人は目指してシルヴァンの町を離れた。






 


 ティブロンの町で、食事を摂るために、バーベキューポークを購入しに商店へリリィは入ろうとしたが、店の入り口に蜂蜜が陳列されているのを見る。その蜂蜜の瓶のラベルには、ママの遺品にあった“黒い聖母"の同じ絵が描かれていた。

 店主にリリィは“黒い聖母"の養蜂場がある所在を聴いて、ロザリンと二人でボートライト家を訪ねた。そこはカリビアン・ピンクの家で黒人の女たちが沢山出入りする不思議な感じのする佇まいだった。






 


 リリィは意を決して、ボートライト家の扉をノックして、ロザリンと供に農場で住み込みで働かせてもらえるように懇願する。ボートライト家は長女のオーガスト、次女のジューン、三女のメイが暮らしていた。

 養蜂場で働くことになったリリィは翌日にオーガストに仕事の指導を受ける。農場には将来、弁護士を目指す黒人のザックが働いていて、リリィは自分は将来、作家志望だと打ち明け、二人は親近感を持ちながら養蜂場の仕事に励む。  





   


 そんな、ある日、ザックはリリィを映画に誘うが、その当時のサウスキャロライナは映画館の入り口も客席も、白人と黒人は別々だったが、同席するリリィとザックに白人至上主義者たちにより暴行を受ける。さらにザックは何処かへ連行されてしまい行方が判らなくなってしまう。

 ザックが白人たちに拉致されて、メイ・ボートライトはショックのあまり自殺してしまい、リリィがボートライト家に来てから不幸が続くのは自分が現れたためと考えるようになる。

 ザックはティブロンの町の新歩的な白人弁護士の力を得て無事に帰還できたが、リリィはボートライト家を去ることに決めた。しかし、オーガストから意外な事実を聴いてしまう。リリィのママは子供の頃にオーガストが乳母で、ママとパパの秘密を知っていた。そして、リリィはママを死に至らしめた過去の秘密をオーガストに打ち明ける。

 この映画のテーマは“母と娘"の愛を描いているが、母の愛情を得ることをなく育った少女の成長譚でもある。また人種差別と偏見を超えた大きな家族愛がテーマの核心にした珠玉の作品。

 さて、映画の舞台は深南部である。食卓には必ずコーングリッツやコーンミールが主食として常備されている。これらを素材にコーンブレッド、パンケーキ、コーンフリッターが作られていた。

 また、食材としてだけではなく、映画の冒頭では、T・レイ・オウェーンスは娘のリリィに折檻する装置にしているが、この場面はコーングリッツに馴染みの無い日本人には理解に及びにくいだろう。

 リリィの誕生日にロザリンが焼いてくれたケーキは、コーンミールが素材だと思われるし、ボートライト家は養蜂家なので焼かれたパンにはたっぷりの蜂蜜がかけられていた。またレモネードの甘味もハチミツが入っていたに違いない。

 ハチミツといえば黄金色が相場だが、リリィとザックが蜂の巣箱を開けると紫色の蜜が巣板に入っていたシーンは美しい場面だった。紫色の蜂蜜を見たのは始めてだったが、黒い聖母の装束も紫色であったのは愛の法悦としての象徴であろう。(了)   






 『アメリカン・ビューティー』(原題: American Beauty)は、1999年製作の米国映画。英国の舞台演出家であるサム・メンデスの初監督作品で、アカデミー賞の監督賞をはじめ、作品賞、主演男優賞など5部門を受賞する。主演はケヴィン・スペイシーで、物語はケヴィン・スペイシー演じるところのレスター・バーナムのモノローグで映画は序幕となる。

 この主人公の独白は、やがて物語の結末で本人自身が死んで亡くなり、まるで生前の死に至るまでの経緯を述べるような語り口で物語は始まる。そして、この死者である主人公の回想場面の前に、自分の18歳の娘が、或る男に、主人公である父親の殺人を依頼する冒頭のシーンが挿入されているから、この映画はミステリー的に展開すると誰もが想像してしまう。

 しかし、この映画は序章を終えると喜劇的に物語は加速する。それもブラックユーモアをたっぷり含んだドラマとして膨らみながら疾走して、ある種の爽快感さえ感じさせてくれる高揚感が噴出していく。




 
 



 あらすじは、アメリカの中産階級の、プチブル的な、ごく普通の、一見して表面上は幸せにも思える家族が暮らす閑静な郊外の住宅街が舞台である。

 主人公であるレスターは広告業界に勤める冴えない42歳の中年男で、今にも会社からリストラ寸前にして、女房とはセックスレスで、恥ずかしながら朝のバスルームでシャワーを浴びながら自慰行為が日課である。そんな彼の一人娘には軽蔑されて毛嫌いされて無視されている憐れな男性なのだ。

 死んだレスターが語るところによると、生きていた頃の晩年の生活が、死に至る少し前までが、彼にとっては死んだような生きざまで、脱力した人生の敗残者であると自他共に認める存在であったと回想している。

 しかし、そんな脱け殻みたいな人生を過ごすレスターに、生気と、生き甲斐に、活力を与える出来事が或る日に起こる。それは恋であったが、それも自分の娘の同級生であるティーン・エイジャーに恋心を抱くことから悲劇の発端になり、また、喜劇として物語は進捗する。

 しかし、その悲劇的な結末は、事件性としては破滅的であり、表層的には悲劇性を孕んでいるが、その主人公の死は幸福な結末というパラドックスを含むところに、この映画の感動的なドラマツルギーが収斂しているのがミドコロとなり、映画は傑作と評価された由縁なのであろう。






 


 つまり、この映画のプロットは本質的には悲劇である。しかし、この悲劇は結末で悲劇的ではあるが、そこには救いのある穏やかで、和やかな美を秘められたカタルシスがあるのだ。

 レスターは娘のジェーンに、日頃から軽蔑されているが、ジェーンの友達であるアンジェラ・ヘイズに色目をつかい懸想することで、さらなる憎悪へと、父親に対する娘の感情は負へと加速的に増幅していく。

 アンジェラの姓がヘイズということは、つまり、アンジェラとはナバコフの“ロリータ"の眷属である。ロリータとはハンバート教授が密かに名付けた渾名だが、その本名はドロレス・ヘイズであった。しかし、ナバコフの物語では、愛しいロリータはファム・ファタールであり、救いのないニンフェットであるけれども、アンジェラはレスターの、その名の通り結末で“救い"の天使になるのである。 

 アンジェラは表面上は、名前とは裏腹に通俗的な“おませ"で性的に奔放な女の子である。男は誰でも自分の魅力に惹かれるものだと自惚れ、また平凡な生き方を軽蔑している存在である。しかし、終幕でレスターの“ロリータ"ちゃんから、レスターの“天使"となり啓示を与える重要な存在になるのだ。






 


 さて、『アメリカン・ビューティー』というタイトルは、薔薇の品種の事で、レスター家の庭で妻のキャロラインが育ている深紅の薔薇でもある。そしてレスターにとってはアンジェラが薔薇の化身として、妄想の世界で咲き乱れ、散っていく、深紅の美と退廃の匂いの象徴となる。

 レスターの娘であるジェーンは、父親だけではなく母にも軽蔑の念を向けている。その母親のキャロラインは上昇志向の強い見栄っ張りで、アンジェラに言わせると嘘ぽっくて胡散臭い。不動産ブローカーのキャロラインは自らの成功の為に、不動産“王"のバディーに指南し、また彼と不倫に及び、更なるストレス発散の為に拳銃射撃まで始める。

 表面的には幸せそうなバーナム家は、いつ崩壊してもおかしくないほどに、家族の病巣は闇のなかで次第に膨らんでいく。そんなバーナム家の右隣にはゲイのカップルであるジム・バークレイとジム・オールマイヤーが暮らしていて、或る日にバーナム家の左隣に海兵隊のフランク・フィッツ大佐の一家が越してきた。

 フィッツ家の妻は精神を病んでいて、一人息子のリッキーは薬物依存症で“ヤク"の売人だが、支配的で異常なくらい厳格な父親にDVを受けている。このフィッツ家にしろ、バーナム家にしても内実は病んでいて、同性愛者のジム&ジムの家庭が、二つの家族よりも健全で健康的な暮らしを過ごしているのが対比的に演出される。

 演出といえば、映像と音楽の効果的なのも秀逸で印象的である。レスターがアンジェラと出逢ってエロティックな妄想をする場面に、リッキーがビデオを撮影する世界、美を垣間見るその視線は、レスターでは耽美でキッチュであり、リッキーは無機質でサイコな視線の映像になっている。

 バーナム家にアンジェラが泊まった日の夜、ジェーンの部屋のドアの前でレスターは立ち聞きする。すると、アンジェラは、ジェーンのパパがもう少し筋肉隆々のマッチョだったら一緒に寝てもいいと、ジェーンに宣告するのを耳にしたレスターは、この夜を境に人格も行動も変幻し、味気ない現実から次第に逸脱していく。






 


 その翌日、レスターは会社を辞めて、ハンバーガーショップでアルバイト店員となり、トヨタ・カムリから、深紅の70年式ポンティアック・ファイヤーバードに買い換え、ダンベルとベンチ・プレスをガレージに置き身体を鍛え始める。また、お隣のジム&ジムと早朝からジョギングをして、リッキーから極上のマリファナを購入してハイテンションになる日々を送る。   
 
 勿論、レスターの突然の変化にキャロラインとの夫婦間の関係は次第に悪化していく。ジェーンはアンジェラに色目を使う父親に対して愛想を尽くして、恋人になったリッキーに父親殺しを依頼する。・・・・・・あらすじは、ここまでにしておこう。ラストでレスター・バーナムは頭を拳銃で撃たれて殺されるのだが、ミステリーは登場人物たちの心の闇にあり、美を求めて、果敢に人生の最期を疾走したレスターは幸福な死を遂げる結末を迎える。






 



 さてさて、この映画で印象的な飲み物と食べ物は、バーナム家にアンジェラが泊まった夜に、レスターとアンジェラが飲む“ルート・ビアの場面と、レスターが退職した日のバーナム家の晩餐で、料理した“アスパラガス"を盛り付けた皿をキレたレスターが壁に投げつけるシーンが特に印象として残るであろう。

 ・・・・・・何故なら、ルートビアを飲んだ夜と、アスパラガスの料理を食べる夜までに、主人公のレスター・バーナムの劇的な変化と、そのケヴィン・スペイシーの演技力には誰もが瞠目されるであろう。