その昔に(昭和後期から平成初期の頃)、銀座でバーテンダーをしていた時期がある。お店に出勤する時間は午後4時頃で、その時間帯の銀座は、自転車、原動付バイク、リヤカー、軽トラなどで、氷を積んだ氷屋さんが、寿司屋やバーのある店舗のビルの前の路上で大きな板氷を鋸で挽いて、最小で一貫目ぐらいの塊にして配達をしていた風景を観たのが思い出される。
多分、今でも、築地や銀座、それに新橋の一地域では見られる風景なのであろうと思われる。
それは平成になる少し前の時代のお話であり、その頃に夏の風物詩として、風鈴売りや蛍売りの天秤屋台が銀座を徘徊していたのも懐かしく思い出でがあるが、特に蛍売りはその当時ではとても珍しかった。
現代では、その数も環境問題から激減し、絶滅も危ぶまれている蛍なのだが、昔は清流であれば日本全国各地に何処にでも生息していて、広く人々に親しまれていた昆虫である。
淡く光を放ちながら飛び交う蛍は、幻想的に夜を舞う美しい点滅を闇に浮かべる。
源平の合戦以後は、源氏蛍、平家蛍の呼び名が生まれ、交尾のために入り乱れて乱舞するさまを、蛍合戦などというようになる。
江戸で、蛍の名所として名高いのは、谷中蛍沢。日暮里の宗林寺の境内にあって、多くの蛍が飛び違うことで知られていた。
また、その他にも、王子や根岸、麻生や目白下など、少し江戸を離れれば、いくらでも蛍の名所はあったのである。
旧くは、大川や江戸川にも沢山の蛍が見られたそうだが、江戸が大都市化するにつれて、徐々に数が減ってしまったということで、江戸時代にもやはり、自然破壊や環境問題はあったのですネ。
もちろん、現代のように蛍が全く棲めない環境になってしまったわけではないので、長竿の先に笹の葉や団扇、紙袋などをつけた子ども達が、蛍を捕らえようと走り回る姿も見られたであろう。
文化文政の頃の江戸の蛍売りは、細く割った竹の先に丸い蛍籠をぶら下げたものを、藁苞(わらづと)に挿して売り歩いていたそうな。
竹ひごの先で、仄かに光る蛍籠がゆらゆらとしているさまは、さぞかし風情あるものだったに違いないと想像される。
先に述べたように、江戸の中心部では郊外ほどに蛍が見られなくなっていましたから、日本橋近辺の子ども達は、蛍売りがやってくると大喜びで群がったであろう。
ボクが働いて銀座のお店に常連のお客さんが、夏の或る日、蛍を一匹虫籠でお土産に持ってきたことがあった。霧吹きで水を吹きかけると、蛍は儚げに光を放ち、クローゼットの中でその微妙な輝きに幻惑されたことを思い出す。
銀座の街のネオンや街路のシグナルやテールランプよりも、それは儚くか細く美しい淡い輝きであった。・・・・・・できることなら自然の中で蛍の乱舞を一生に一度見てみたいものである。