映画のなかのイエス その7『奇跡の丘』 | 空閨残夢録

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 かつて、吉本隆明の『マチウ書試論』という評論を読んだが、これは新約聖書の『マタイ伝』を論評したもので、革命家としてのイエス・キリストを浮き彫りにした著作である。また反逆の倫理性という同じ視点からイエス・キリスト伝を映像化したピエル・パオロ・パゾリーニ監督もナザレのイエスを革命家とした視点からとらえて、『奇跡の丘 (Il Vangelo Secondo Matteo )』という映画を原案と脚本も担当しながら創られた作品。


 この作品は1964年公開のイタリア映画である。出演者はすべて素人の役者で、プロの俳優は全く出演していない。そして白黒のフィルムワークと相俟ってドキュメンタリー風にも感じてしまうシンプルな映像となっている。ドラマティックな設定も極力抑制されていて、無駄な構成や余計な装飾もはさまれず、主観は排されて、あくまでも忠実に『マタイによる福音書』の文体を映像化している。


 映画の冒頭は処女マリアが懐妊して、ヨセフに天の御使いが聖霊により受胎したことを告知する場面から始まる。この場面でショットにして31回、クローズアップによる切り返しの構図が基本となり、マリアとヨセフと天使が登場して、セリフは天使の受胎告知だけで、マリアとヨセフの間に会話は無く 、ただお互いに眼を交わし、眼を逸らし、沈黙のうちに、やがて微笑を交わすのみである演出となる。







 『マタイによる福音書』は文体がきびきびとして無駄がなく、だらだらとした心理描写に陥いることもない。そのスタイルは一貫して簡潔な文体なのであるが、パゾリーニの演出もこのスタイルを踏襲するように、会話によることのない一挙一動のなかで、役者の表情のなかに、感情と思念を記号化するように、役者は余計な演技は極力されていない。


 映画評論家の四方田犬彦氏は、「マルコ伝は叙述が単純すぎて且つ曖昧であり、ルカ伝は過剰に感傷的で、ヨハネ伝はあまりにも謎めいている。」と評しているが、四福音書のなかでマタイ伝だけが、「イエスの内面に秘められた見えない暴力性と孤独感が、 その存在の内奥を見据えている。」と述べている。


 パゾリーニはマタイの文体に惹かれて、ナザレのイエスの誕生から死、そして復活まで、必要最小限の事実だけを端的に述べるという姿勢を崩そうとせず、映画『奇跡の丘』を映像化して、そして歴代の「キリストもの」映画とは、厳密に一線を画して物語化している。その明確な特徴として、イエスという主人公を近代小説のそれのように、豊かな感情と内面をもった人物像として描かないことに力点がそえられていることである。


 二千年前に執筆されたマタイによる福音書がナザレのイエスを簡潔に、しかも強い筆遣いで描いたことに、まるで呼応するかの如く、それを音と映像を通してパゾリーニは描いて表現したのが、映画『奇跡の丘』なのである。世俗化を拒み、かといって聖人画のような過渡な神聖化に陥ることも避け、ナザレのイエスを民衆の英雄のように叙事詩的に描いた作品といえる。


 主演はした俳優は、当時、スペインで反体制活動をしていた学生のエンリケ・イラソキがナザレのイエス役を演じる。若き日のマリア役に女学生のマルゲリータ・カルーソ、老いたマリアにパゾリーニの母であるスザンナ・パゾリーニ、12使徒にはパゾリーニの友人である詩人、哲学者、評論家、作家、体操選手、農夫などを起用し、職業的俳優は皆無である。


 若きマリア役は女優のような華やかさはないがとても美しい。天使役の少年は少女のように美しい。そしてサロメを演じる少女は悪徳や悲劇性のかけらもなく天使の如く美しかった。そして撮影された南イタリ アの牧歌的風景に、そこで生まれて育った風貌のエキストラ陣は、そのまま風景の一部の如くに自然だった。






 オリジナル音楽はルイス・エンリケ・バカロフで、J・S・バッハの『マタイ受難曲』『六声のための遁走曲(リチェルカーレ)』、アルトン・フォン・ウェーベルンの『ミサ ロ短調』『われらに平和を与えたまえ』、アマデウス・モーツァルト『アダージョとフーガ ハ短調』、セルゲイ・プロコフィエフの『アレクサンドル・ネフスキー』、黒人霊歌にオデッタ・ホームズ、ロシア革命歌などが選曲されている。


 このパゾリーニの映像詩は、エンターテイメイントとは無縁な作品だが、「キリストもの」映画では必見である作品といえよう。因みにパゾリーニは無神論者でコミュニストだったが、吉本隆明の『マチウ書試論』という評論に通底する思想が垣間見える作品でもある。