シュトライヒャー余聞(3) | 緑の錨

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歴史家の山本尚志のブログです。日本で活躍したピアニストのレオ・シロタ、レオニード・クロイツァー、日本の歴史的ピアニスト、太平洋戦争時代の日本のユダヤ人政策を扱っています。

シラーは慎重に脱走計画を練ることになります。ヴュルテンベルクの枠などはるかに超えて、全ドイツ、全ヨーロッパ、そして全世界に訴える詩人となるべく、世界への飛翔をはじめようとしたのです。

ところで、このときカール学校には一人の孤児が音楽を学んでいました。その人物がヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーで、音楽的才能にめぐまれて、カール学校で音楽家になるべく訓練を積み、ピアニストの道を歩みはじめていたのでした。シラーは音楽を解したというわけでもないようなのですが、シュトライヒャーと親しい友人になります。

シラーは自分の友人の中で、ただひとりシュトライヒャーだけに、脱走計画をうちあけました。

1783年春、シュトライヒャーは当時最大の音楽家であるフィリップ・エマニュエル・バッハに学ぶために、ハンブルク留学を計画していました。シラーはシュトライヒャーの出発に同行することで、ヴュルテンベルク公国を脱出しようと考えたのです。

 めだたぬように、シラーは荷物を少しずつシュトライヒャーのもとに運んで、逃亡の準備を進めました。さらに旅行先で生活を可能にするために、かれは第2作「フィエスコの反乱」を必死になって書きあげたのです。劇場での成功しか、異郷で生きる道はなかったのでした。

1783年9月22日、シラーとシュトライヒャーは脱出を敢行することにします。