日本のピアノ教育について | 緑の錨

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歴史家の山本尚志のブログです。日本で活躍したピアニストのレオ・シロタ、レオニード・クロイツァー、日本の歴史的ピアニスト、太平洋戦争時代の日本のユダヤ人政策を扱っています。

 前のエントリーに沢山のレスをありがとうございます。それぞれのお立場から真摯なレスをいただいたように思っています。コメント欄に記入しようとも思いましたが、新しいエントリーを起こすことにしました。

 レスを読ませていただいて感じたことなのですが、ピアノ教育の問題というのはとりわけ複雑で、見方によって浮かび上がってくるものも違ってくるもののようです。その上に突っこんだ議論や意見交換がどこでも為されていないので、それぞれの当事者が、別の立場の人々の意見を聞く機会があまりないということもいえるように思います。

 たとえば、私にとって日本ピアノ教育の危機は、1990年にイタリア・ヴェルチェリで聞いて以来、日本で活動する多くのピアニスト・ピアノ教師から日常的に言われ続けてきたことです。

 しかし考えてみれば、このような側面が大々的に取りあげられるのは音楽雑誌・ジャーナリズムの世界でもあまりなかったと思います。それは、あくまで内輪の世界で流布していることのようです。

 わたし自身としては日本の若いピアニストの批判には結びつけたくはないのです。日本の若手ピアニストを批判をする楽壇の大物や内外の大物教授・ピアニストと周囲が心配するほどの激烈な論争をしたことも何度かあります。冷や汗ものの思い出ではありますけど。外国人教授に対しては、ちょっと思いだしたくないようなことを言った記憶もあります。

 ただ、ある枠に演奏を押し込めようという圧力は長年にわたって感じてきました。そして、ある時代に、こうした圧力が日本ではとりわけ強かった、というように思ってきました。その正体を探るというのが、日本のピアノ演奏史を考えはじめた目的の一つでもありました。

 また古い世代のピアニストがあっさりと私に現代のピアニストについて語ったように、引き出しが少なくなった、という点は、やはり考えてみる必要があるかと思います。つまり、選択できる表現の音楽的・技術的可能性が、現代では少なくなっているということです。

 私は現代の若手ピアニストについてよく批判される、誇張された表現の背景には細かい表現技術の低下という問題があるかと思っています。大きくテンポを変えたり音量に極端なコントラストを置かなければ、音楽を表情豊かなものにするのがむつかしくなっているのです。

 ヨーロッパの代表的巨匠シロタとクロイツァーによって出発した日本のピアノ演奏に、なんらかの問題があるとしたら、それはなぜ、どのようにして起こったのか、というのは、このふたりの伝記を書くときに考えたことでした。

 そして、私の批判は演奏したり教えた人々に対してではなく、音楽について書いた人々、すなわち批評家と音楽学者にむかうことになりました。私の主張では、ヨーロッパの新即物主義を曲解した日本の批評家たちが、極端に即物的で杓子定規な演奏を導入して強要したのだということであり、従って、意欲と資質に富んだ日本の教育者とピアニストの可能性が構造的に抑圧された(されている)のだということでした。

 この議論は戦後の批評家で感受性の鋭さと洞察力にずばぬけていた藤田晴子先生の議論と、巨匠レオニード・クロイツァーがみずから書きのこして、あるいは語ったことに影響をうけたものです。

 ただ、にもかかわらずあえて断言しておきたいこともあるのです。構造的な圧力にかかわらず、それ故にしばしば不遇であっても、伝統的な意味で、すばらしい演奏、すばらしい音楽をつかみとっている日本のピアニストはやはり存在するのだと。音楽界の主流から外れやすい故にしばしば見つけにくくはあっても、日本のすばらしいピアニストたちは、自分たちの信じる音楽芸術の道を歩みつづけているのだと。