真意がない | 緑の錨

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歴史家の山本尚志のブログです。日本で活躍したピアニストのレオ・シロタ、レオニード・クロイツァー、日本の歴史的ピアニスト、太平洋戦争時代の日本のユダヤ人政策を扱っています。

 文章を読むとき、この文章の真意は何であろうか、ということが問題になります。真意についての理解が混乱するには、いくつかの理由が考えられるはずです。

 第一には、文章が晦渋で何を言っているかわからない場合。書き手の能力の不足によって、悪文を書いているということもあります。

 第二には、文章の読み手に問題があって、理解力の不足から誤解や誤読にいたる場合。

 第三には、真意がないという場合。つまり自分でも何を言っているかわからない場合。

 現代の批評では解釈の可能性を拡大する方向性が強いので、文章に作家の真意が表現されていてそれは唯一無二のものであるという理解が疑われる傾向にあります。

 ただ、これでは実務の場合どうしようもないところがあって、法律、政治や経済に関する議論では、やはり文章の表現している真意が問題にならなければ仕方がないということもいえるかもしれません。

 それで書き手の真意はいつまでも問題にされ続けるのですが、そういうときでも真意というものがあいまいで、その文章に表現されているとはかぎらないという点は注意したほうがいいかもしれません。すると、無用の詮索をいつまでも繰りかえす手間が省けるでしょう。