レベッカ・リシン『時の終わりへ メシアン・カルテットの物語』藤田優里子訳(アルファベータ) | 緑の錨

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 レベッカ・リシン著『時の終わりへ メシアン・カルテットの物語』藤田優里子訳(アルファベータ、2008年)。

 電車の中で読みました。伝説がいろいろあるオリヴィエ・メシアン『時の終わりへの四重奏曲』(ふつうにいわれる名称は『世の終わりのための四重奏曲』)の成立と初演に焦点をあわせて調べたドキュメンタリーです(元は博士論文であったようです)。

  この『時の終わりへの四重奏曲』は名状しがたい感動的作品ですが、第二次世界大戦当時にドイツ軍の捕虜になったオリヴィエ・メシアンが捕虜収容所で作曲、当時居合わせた三人の音楽家とともに収容所の過酷な環境において初演したことでも知られます。

 本書は初演に参加したチェリスト(エチエンヌ・バルビエ)と、ヴァイオリニスト(ジャン・ル・ブーレール)のインタビューをとるなど、かなりの力作かと思います。氷点下の寒さの中暖房も不足するゲルリッツの収容所で、この四重奏曲が上演される物語には迫力があります。

 メシアンの回想に誇張がかなりあるらしいということ、とりわけ伝説的な三弦のチェロや壊れたクラリネットというのは誇張であったらしいということは興味深いです。過去の過酷な状況が誇張されるのはよくあることです。

 また、ヴァイオリニストのジャン・ル・ブーレールが俳優(芸名ジャン・ラニエ)に転職して、『天井桟敷の人々』やら『去年マリエンバードで』にまで出演していたことも興味ぶかい点であると思います。

 さらに、ここでも良心的なドイツの収容所長や陸軍大尉(ブリュル大尉)が出てきて決定的な役割をはたしているのです(本書で「ハウプトマン」は姓の一部のように扱われているけれど、ふつうに大尉でいいんじゃないでしょうか?) 。映画『戦場のピアニスト』でも、良心的なドイツ軍の大尉が大きな役割をはたしていましたね。

 ナチス第三帝国は邪悪な帝国で非難と弾劾に値しますが、同時にドイツには良心的な大尉が様々なところに存在していたこともわかります。ある時代を一色に塗りつぶすという試みは愚かなことです。

 第一次世界大戦の古戦場であり大量の犠牲者を出したヴェルダン要塞で警備に当たりながら、鳥の鳴き声に耳を傾けるメシアン。そして、そこで『鳥たちの深淵』が生まれてくる。二十世紀の悲劇を背景とした芸術的な奇跡のひとつでした。