この本でもっとも気に入ったのは感傷を排して淡々と書かれているところだ。あきれるほど大きな艦の建造がいかに困難をきわめたか・・・話はかなり技術的なところに踏み込んでいるのだけれど、事実だけを追って贅肉のない文だ。引き込まれて読んでしまった。
武蔵は「二号艦」として三菱長崎造船所で造られた。設計は海軍呉工廠の「一号艦」(大和)に倣っている。だから設計の全体像を知る者は長崎の造船現場にはいなかった。
極秘の建艦だから皆、自分の持ち場以外のことはわからない。あえて知ろうともしない。個々人が各自の持ち場で最大の力で励むうち、山のように大きな艦は神格化され「不沈艦」の名にふさわしい威容をあらわしていく。
人は力を結集し、意図せずとてつもない大きな流れを作り出していく。その象徴がたとえば巨大不沈艦「武蔵」だ。なぜこれを造るのか、それは誰も知らない。ただ懸命に努力するうちそれを信じるようになる。
巻末解説に「これは極端な言い方をすれば日本人の集団自殺の 話である」とあった。うまいことをいう、と思う。
武蔵のような巨艦は重油を大量に消費するので容易には動けない。また小戦闘で損傷をうけてはもったいない。そんなことで大和も武蔵もたいした戦績をあげないままレイテ湾突入作戦を迎える。その途上、シブヤン海で武蔵は集中攻撃にあい、長時間奮戦ののち沈没する。
それからの話がもっとも興味深い。
駆逐艦に拾われた生存者は全乗組員2,399名のうち1,376名。海軍は武蔵沈没を秘しておくため、彼らを隔離したかった。半数は内地送還となったが、多くは敵襲等で死亡。内地にたどり着いた者は所属のないまま軟禁状態の生活となった。残りの半数は現地で再配属され自決または戦死によって玉砕。武器がないため突撃隊に編入され、にわかづくりの爆薬を手に戦車に飛び込み玉砕した隊もあった。
この作品はここまでやはり淡々と語って、終わりとなる。
ここで私は考えた。
1944年10月24日、武蔵沈没。
このとき武蔵沈没は秘され、生存者は抹殺されたも同然だ。
1945年3月19日、大和沈没。
大和のほうは「一億総特攻のさきがけとなる」ために沈んだ。
国が滅んで戦艦残る、というのでは格好がつかないからだという。
そして大和は国民の記憶に残り、鎮魂され、博物館もでき、映画になったりもする。
それにくらべると同型艦「武蔵」は報われない気がするが、こちらが普通なんだろう。あの戦争では武蔵のような例が普通であったということがよくわかる。このような事実は情緒をまじえて語られる必要はまったくない。感傷は事実の悲惨さをかえって曇らせると思うからだ。吉村昭は素晴らしい。
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