評価不能・・バルト | ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

テロワールにより造り手により 変幻の妙を見せるピノ・ノワールの神秘を探る


ドメーヌ・ギスレーン・バルト シャンボール・ミュジニー 2002
購入日    2007年1月
開栓日    2008年10月3日
購入先    かわばた
インポーター 中川ワイン販売
購入価格   4980円

ノーベル賞の話題でかまびすしいが、物事を真っ直ぐから見ない、わたしから一言。

ノーベル賞は、天から降ってくるものでは決してない。
相当な獲得運動をしなければ、ゲットできないものである。
日本のマスコミの報道にはこの視点がまったく欠けていて、おめでたすぎる。

そして、当たり前だが、生きていないともらえない。
わが国の国民栄誉賞とは違うのである。
これが前提。

ノーベル賞は、3人まで同時受賞できるが、4人以上はもらえない。
従って、利根川進のように、単独受賞した人は特に高く評価されたものと言ってよい。

例えば今回3名で化学賞を受賞された下村氏の場合、後継者である他の2人が獲得活動に成功した
と見るべきであり、発案者である下村氏が棚ぼたのごとく含まれた、という見方ができる。

物理学賞を受賞された2+1人にしても、み~んな思い切り過去の研究であり、
今ごろになって日本の素粒子研究が世界で認められた、と騒ぐのは非常に奇妙だ。

「30~40年前の日本の素粒子研究は、世界の先端を行っていた」
と正確に言い直すべきである。
今や、ノーベル賞(文学賞や平和賞を除く)そのものが、時代からはるかにずれたものに
なっているのだ。

これで日本人のノーベル賞受賞者数は16名になった、ということだが、
複数名の受賞は割り引いて考えるべきで、まるで大した数ではない。
米国には、ノーベル賞受賞者は200人以上もいる。

これで、日本の研究レベルが米国に劣っている、と思うのは大間違いだ。
日本人研究者は広報活動が下手なため、本来ノーベル賞に値する研究をしているのに、
受賞の栄に浴していない、というのが現実である。

たとえば、わたしのすぐ近くにおられる、元阪大総長の岸本忠三氏、その弟子の
審良静男阪大微研教授など、いつ受賞してもおかしくない研究者である。

うちの近所に住む、飲み友達である京大工学部の教授だって、
そのうちノーベル賞をもらってもおかしくない、と言われている(らしい)。
今はただのおっさんだが、もし30年先に生きていて受賞したら、30年前の研究で
突然偉人になってしまうではないか。

余談だが「京大はキタナイ」とわたしが思うのは、こういう超一流研究者を、
評価が定まってから、自分のところに招聘するのを繰り返すからである。

このままでは、ノーベル賞は、
「立派な研究をして幸いにも長生きできた人」または
「若い研究者だが自分を売り出すのに長けた厚かましい人」
に与えられる賞、ということになってしまう。

日本人がノーベル賞を受賞するのは喜ばしいが、マスコミは何を言うとんねん、
と思うこの頃である。

わたしが研究者を辞めたのは、このままではノーベル賞は無理だ、と思ったからである
というのは大ウソ。


それはともかく、今回のワイン、抜けていた。
あえて言うが、わたしはこの造り手のワインは、本来の飲み頃になればフェミニンな魅力を
発揮する、と思っている。
最上級の香水のような、香ばしさがなければならない。

しかし、このワインにはまるで香りがない。
輸送・保管状態に問題があったのでは、と思わざるを得ない。

だが、どこかいとおしくて、2日かけて飲みきってしまった。
やっぱり元のブドウはしっかりしていたのだろう。
同時に買った1級ものの状態が不安だ・・・

仕方ないことだが、どこをどう彷徨ってきたか分からないバックヴィンテージには、
常に危険がつきまとう。