ひとつのピノの理想型か | ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

ワインな日々~ブルゴーニュの魅力~

テロワールにより造り手により 変幻の妙を見せるピノ・ノワールの神秘を探る


ジュリアン・メイエー ピノ・ノワール「ハイセンシュタイン」アルザス VV 2001
購入日    2006年1月 
開栓日    2006年5月18日
購入先    Alcoholic Armadillo
インポーター コスモ・ジュン
購入価格   4700円

このワインは2000と2001を購入し、それぞれすでに開栓している。
2000年の印象は、やはり普通のブルゴーニュのピノ・ノワールとは違うものであった。
すなわち、ビオワインに理解がある飲み手には賞賛されるかも知れないが、
決して万人受けするものではないだろう、という印象であった。

そして2001だが、こちらは枯れる寸前の古酒の風情で、
開栓とともに落ちていくのがはっきり分かった。

それがこのワインの実力かと思えばそれでおしまいなのだが、Alcoholic ArmadilloのHPにも
あるように、1月に出荷したワインは万全なものでなかった可能性が高い、とのことで、
あとで1本新たなボトルを送っていただいた。
それが今回の1本である。

一言で言って、前回の2001とはまったく違うコンディションのワインである。
前回のボトルの壁には、べったりと澱が付着していたが、今回のボトル壁には、
まったく澱の付着はない。
色は同じような煉瓦色だが、底に残る澱の量も、比較にならないほど少ない。

前回と同じように明らかなビオ香はするが、何ら違和感はなく、
酒はまったくダメな家内が一口飲んで、
「これは美味しい。このワインなら、誰が飲んでも美味しいと言うと思う」
という印象を口にした。
それほど、ビオワインの特徴が明瞭な、2000や1本目の2001とは違っている。

このワインの欠点を指摘するのは難しい。
甘さと酸味と旨味が絶妙なバランスで存在し、何一つ突出した印象がない。
ひょっとすると、こういうワインを「球体のようだ」と表現するのだろうか。

そもそもワイン自体が自己主張をすることがない。
ドスンと重いワインや、ゴワゴワのタンニンをまとったワイン、香水のように香りをひけらかすワインも
多い中で、このワインの控えめな美しさこそ特筆に値する。

例によってワインを飲みながら、脳の中で鳴る音楽に想いをめぐらしてみると、
フランスバロックの大家、フランソワ・クープランの「王宮のコンセール」がしっくりくる。
残念ながらこの曲の理想的な演奏記録をわたしは知らないが、イ・ムジチによる名演奏がある
トマゾ・アルビノーニの完成度の高い合奏協奏曲とは、かなりイメージが異なるのである。

このワインの魅力には抗しがたく、開栓当日に3分の2以上空けてしまったが、一見軽やかで
控えめに見えて、その実複雑で立体感のある旨味は、翌日の方が際立っていた。
この点からも、明らかに先の1本は本来の魅力を欠いたものだったことに気付く。

Alcoholic ArmadilloのHPには、
「同時に抜栓したジョルジュ・ルーミエのシャンボール・ミュジニ2001よりも上を行くと言っても
 良いと確信しています」とあるが、わたしも同感で、ルーミエの村名シャンボール・ミュジニーなど、
はるかに越えるワインである、と思う。

この印象は、畏友ooisotaroさんの印象をも大きく上回るものであるが、
これは、ボトルによる差が大きいためである可能性がある。

ワインである以上、造り手が存在するはずである。
しかし、このワインは自然の神秘的な力を感じさせはするが、造り手の存在を意識させない。
ブルックナーのシンフォニーは、演奏家が作為を行うことで作品の本質が損なわれる、と先日書いた。
これは同じことを示しているのかも知れない。

Alcoholic Armadilloというショップが、われわれ消費者の立場に立って、万全でないワインで
あったことを公表し、きちんとフォローをした、というのは事実である。
だからその誠実さにわたしも感心したのだが、それだけではなかったと、このワインを飲んで分かった。

Alcoholic Armadilloは、一消費者であるわたしを大切にするためだけに、今回の素晴らしい1本を
改めて送って来られたのではないだろう。
ジュリアン・メイエーという天才的な造り手が、不本意な1本で正しく理解されないことが、
ワインを扱うプロとして許せなかった、ということだったに違いない。