空は、高層ビルをいかに積み上げても届かないところにある。

昨日、課題が一件落着したので、銭湯に行った。
サウナに入ったり、打ち水にあたったりしたあと、露天風呂に浸かって空を見上げた。


すると、満月が、行き往く雲に隠れたり、出たりしていた。

久々の月。

空の崇高さは、物理的な高さでもって、汚されにくい。
月に懸かる雲の形は、次々と形を変えながら、絶えず流動する。
まるで諸行無常のアニメーション。人間が生み出すものよりも遥かに及ばない力で、淡々と動いている。
それは、いかに高度なプログラミングをさせようとも、いくら数字を積み上げても越えられない驚異。

都市に出て、地面に立つと、視点に対して空の占有率が狭くなる。目に入ってこないのだ。
この静かな緊張感はしんしんと粉雪のように降り積もり、いつの間にか精神を蝕む。
視点が目先だけになる。
その近眼で手前の建物を見る。
にょきにょき突き出た高層ビル。
そこに住む富裕層がベランダから地面を見下げるとき、格差が生まれる。
ビルが高ければ高いほど、地面に落ちる影が大きくなる。


幾人かがそこに落ち、幾人かがエレベーターで這い上がる。


次々と出てくる顔を受け止めながら
刻々と堆積する膨大な時間を感じた

口は赤みを増し
鼻は下向き
額の皺は樹齢100年
よれたネクタイは裏返り
ニュートラルの瞳に私が映る

彼がまばたきをした後の瞳に
私はもういない

その堆積物の流れの
定期的な一瞬
31日は朝6時半のJAL便にビジネスマンらと一緒に乗り、福岡につくなり、そのまま予備校へ直行、20時までデッサンなど教えました。初日ハード。

不思議なことに、大学に入り、デッサンから離れて時間が経つほど、デッサンから見える視点が増えてきます。
やはり受験でのデッサン課題というのは、十分意義はあるのですが、「受験」の分、モノの見え方が縛られてしまう部分があったんだな、と振り返って思います。
だから受験時期はいいのですが、それ以降、美術やデザインを学ぶ姿勢としては、体育系部活のように、具体的なゴールを決め、突進していく特化型で臨むだけでは、成長に限界があると思いました。

というのは、受験というデッサンは「大学に認められる」考えで頑張るわけですが、大学に入学すると、その学校や社会「認められる」ことは、受験デッサンや平面構成から、無限の表現に広がるのです。(突然霧が晴れたように)

私は美大に入った当初、荒涼の砂漠地帯に一人で立っている感覚を覚えました。確固たる価値観が崩れてしまった、多くの自由と至る所に転がる責任が全て同じ距離に存在している世界。自分の思い次第でどうにでも変わってしまう怖さ。うまいデッサンを描けば安心できる感覚からの、この猶予期間無しのシフトは恐ろしいものです。

私はそのため「とことん自分の好奇心に貪欲になる」ことにしました。それが自分を知る1番の近道であり、自由を勝ち取るための責任を選ぶ一つの軸として機能しやすいからです。この視点からすると、かなりニュートラルであり正直な人間として生きている気がします。