もっとも、小さい頃からつい最近まで、シティガールだった私は虫が大嫌いだった。
都市に住むと、小さな不確定の動きをするものに恐れを抱くようになる。思い通りに機能している生活に突然の虫!誰が呼び出したわけでもないのに彼らは縦横無尽に動く。何をしでかすかわからないその小さな生き物に私は触れることもできず、ただ怯えていた。

どうやら不安というのは、何が起こるかわからない物体や事象に対して抱くようだ。

ところが最近、虫の存在を容認できるようになった。
ブータンの人は蚊を殺さない。その理由が「蚊が自分たちの祖先かもしれない」からであるという。忘れられた仏教の考え方である。自然崇拝の血が流れている私たちには共感できる。しかし都市に住むと、人間だけで生きている気がするし、人間の作る社会の中でしか物事を考えられなくなる。

一昨日、武蔵小金井や東小金井駅の南口に位置する武蔵公園に行った。公園といってもハイドパークのような整備されたような公園ではない。雑木林があり、いくつかの丘、私以上の高さの雑草もあり、地面の起伏に富んだ大きな公園である。天気がいい所為か多くの家族が来て、自然を満喫していた。私以上の年のカップルが童心にかえっていた。自然は子供時代を思い出させるものである。

大きな丘に登ってサンドウィッチを食べていると、腕に一匹のアリが這い上がってきた。
私は公園内にいるアリの総数を考えた。世界全てのアリの総数は1京匹、重量は世界の人間総数のと同じなので、公園内でも私の重量を越える数がいるかもしれない、と思った。

アリの性質を調べるにつれ、彼らが高度な社会生活をしていることを知った。
『蟻の生活』を著したメーテルリンクは「アリ塚はたったひとつの個体と考えるべきだろう」と結論する。あたかもわれわれの身体を構成する約60兆の細胞のように有機的な全体として、部分が全体をはらんで超個体を形成している。自己犠牲を厭わない、利他主義の世界である。

アリは人類が出現する以前に登場しており、何百万年経っても、その仕組みは進化を遂げていない。それは地球に生きる共同体のプロトタイプとして完成してしまったからだろう。
個人主義、利己主義が横行する今、のこの共同体はミクロを拡大させて知る必要があると思った
強いストレスを感じ、雅子様と同じ「帯状疱疹」になったのは高校1年。
病院で診断される前は胃がチクチクした。


その頃、高校の部活で大いに期待された私は、毎日の練習で、気絶し花畑が見えたくらいしごかれた。午後の授業の間、放課後の練習を考えるだけで、気がふさぎ、胃を痛めはじめた。そして横腹に疱疹ができた。おかげで、1週間休みをもらえた。
練習は、土日も休みなし、年始とお盆だけ休みをもらえる、という徹底した一直線型だった。逃げる道も無かった。一番考えると怖いのが、2ヶ月で治ると診断された右腕の脱臼を、県大会のため、テーピングでガチガチに固め、2週間で出場したことである。試合となると自分の怪我について庇うヒマもなかったから、どうにか戦えたが、今は考えただけで、恐ろしい。

しかし、県ベスト4まで昇ったのは、他でもない顧問の先生の賜物だ。私自身、そのスポーツ自体に興味というか、強い信念があったわけでもない、ただ先生や周りの期待にこたえるのに必死だったからうまくいった。

帰省し、顧問の先生のところに訪ねると、歓迎してくれる。「今お前に対してやらせた練習をさせると、教育委員会に呼ばれるよ。」と昔の練習がいかに大変だったかを振り返る。当時、公立の進学校だったので、部活は無名だった。先生は私を見つけ、「こいつで広めよう」と思ったらしい。そして、県大会に何度か行くと、やっと学校を覚えてもらうようになった。私は広告体だったのだ。

ストレスという負荷は、原動力になる重さが人によって、それぞれ違う。私は高校で病気になる限界を体験したので、ストレスをある程度コントロールできるようになった。
ストレスが消え、何からも開放されると、人は死ぬ。
この絶妙なバランスが運動にしてもデザインにしても必要なものだと思う。
電車に一列に並んでいた友達と私。
一人が「カフェ!いいじゃない」と言った。
「東京はいやよ、やっぱり福岡よね、住みやすいもの」
「もともとは、花屋さんなんだからね」
「好きな時に開店してね、好きな時に閉めるの。」「お茶とかたくさん揃えてね」
言いだしっぺは実家で花屋。その子が花屋の開業を口にしたら、他の3人がここまで膨らませた。

渋谷からの電車の帰り、ぎゅうぎゅう詰めで、2人は座席に座り、他がその前で立っていた。予備校が一緒で、それぞれ違う美大に行ったので久々の会合だ。
私がみんなの想像についていけず口を開けていたら、1人が「あなたは広報担当ね」と役を与えてくれた。雰囲気が私と合わないのは彼女もわかった。人に接する仕事を与えて、うまく活用してくれるようだ。

このテの話についていけない私は、そのような「優雅」という言葉の生活をしたこともないし、実践するテーマにもしたことないからである。これは、優雅=お金持ちだけではなく、気の持ちようでもある気がする。

ある友達は食にはお金を惜しまない。具体的には食材をワンランク上のものを買おうとするし、街に出ると、おいしいデザートを食べるか食べないか、で満足度が違う。彼女の家に行ったときに野菜スープを頂いた時に思った「最後に乗せるセロリ!」
優雅な匂いを一瞬で感じた。

この食において「質」を求める生活は、残念ながら私そのものに備わっていなかったようである。
いかに安い食材を買うか、と気をつけ、何が食べたい、と思うより「何の栄養分が足りないか」とお腹と相談している。まさに守りの食生活だ。これは私のこれまでの環境の所為ではないと思う。両親は私においしい料理を食べさせてくれたし、コックだった父の作るチャーハンはどこの中華料理屋よりもおいしかった。

「優雅」という生活は、学生の時には不必要だと思っていた。何かにお金をかける、という質のこだわりは、多少服や靴であるのだが、ちっぽけなものでしかなく、生活を潤わせることを常に心がけることなんて無理だ。
そのように考えていた自分を振り返ると、どうやら私は優雅を追い求めるのはモノというより、無形の「時間」のような気がする。

忙しい中の時間、そのほんの合間を見つけて、カフェに入った瞬間のため息と体のリセット。
設備などの質はあまり問わない。最低限うるさくなく、リラックスできる場所でいい。そう、喫煙席でなく禁煙席であればいいのだ。どんなに忙しくて追い詰められても私はその時間を作る。そうすることで、リズムを整える、これが私の学生である身分の優雅さである。

朝ゆっくり起き、好きな時に仕事をして、時間をかけて作ったおいしい食事を好きな人と食べる。
このような生活を私は、40才くらいで望む。