例えば語学を会得するためには、その国の異性と付き合うことが一番効率良いとされる。
恋人同士になると、意思疎通を十分に図らなければならない。
言葉によるコミュニケーションが一番手っ取り早く距離を取り払えるので、必然的に相手の言葉を学ぶ。教師は恋人だから、座学より実践的である。

しかし、どちらかといえば、「外国人に恋に落ちる」→「相手の母国語を学習する」という流れの方が多い。語学だけではなく、相手の気を引こうとするあまり、仕事や課題等も忘れて、その学習に没頭してしまうこともあるだろう。

このように、好きになるということは、相手の言動に振り回されるというネガティブな点もあるが、振り回される自分を客観的に見ることができればこちらの勝ちだ。自分の引き出しを増やすエネルギーだと思い込めば、辛い恋も充実する。

そう考えるのは、今まで、たった20数年生きてきた私の、いくつか学校の学習を除いて「勉強」または「会得」したことのキッカケの大部分が、魅力的な男性からもたらされたものだったからだ。

美大に入る経緯も高校1、2年からメールで絵を送りあっていた男の子の存在が大きい。絵を見せ、評価をし合う場がなければ、(理数のクラスに在籍していた私は)工学系の大学へ行っていた。

高校で骨折以上が「怪我」で休めるハードな部活を始めたのも、先輩にケインコスギ似のイケメン先輩がいたから。

中国語を始め、学校の個人課題に設定し、2回にわたって1人で中国へ渡ったのも、北京に住むカメラマンへの興味があったからだし、
養老孟司先生の書籍を20冊以上読み、公演にも出かけたのも、大学の先輩への憧れが強かったからだ。
デザイナーに恋すると、彼との共感部分を見つけたくて、時間を見つけては展示を見に行き、編集者にインスピレーションを受けると彼の担当した著作を漁り、発想の原点を捉えるために、経済新聞を読む。旅先でつかの間の恋をし、帰国した後、その余韻で英語を勉強するモチベーションは今も続いている。


・・・など挙げればキリがない自分に唖然とする。
まぁそれだけ「私らしさ」というものは、周囲の男性から影響を受けて培ってきたものなのだ。もし、自分の中に根底に何か存在する(分別の基準とか)とすれば、それは産まれたときから物心つく6歳あたりまでの親の生き方で形成された思想や行動パターンかもしれない。だから、今に至っては、周囲の環境でこうなった、としか言えない。


いつも、フラットでニュートラルな自分で。
多くの事象に突き動かされやすい体勢でいるとあらゆることに対しての感度が高いまま日常を過ごすことができる。時には惚れた相手振り回された挙句、心にダメージを受けてしまうこともある。(私はよくあるのよ)その場合は、

休憩すればいい。卑屈にならないようにだけ気をつけていれば、また、魅力的な男性が現れ、刺激を与えてくれるはずである。
私が経験した合コンは3回である。

何を合コンとするかは、人によって色々あるのだけど、この場合は、女友達が「合コン参加して」と男女同数の飲み会に私を呼んだ場合である。

端的に言うと、合コンとは、男女が恋愛の対象になるかならないか、の値踏みを初対面ながら行う場のことである。しかし、合コン中は特定の異性を「欲しい」「欲しくない」等の本能の則した殺伐とした気持ちは胸中に抑えつつ、その場は無難に乗り切るのが、参加して同性から嫌われないために良い。

あくまで「出会いの場」であり、きっかけなのである。合コン後に、異性全員の連絡先等を平等にもらい、それから特定の人に電話なりメールなりすることから、個人間の付き合いが始まるのだ。

とは言っても、合コンに参加する人々の異性に対してのモチベーションは様々だ。
頭数を合わせるために友達から無理やり誘われ、仕方なく付き合う人から、合コンの後に欲求を満たす相手が欲しい人までいる。

結果的に個人のモチベーションの集合体が、合コンの中身と雰囲気を変える。
(意気投合した男女はそこから抜け出し、足早に2人の世界に行き着く場合もある。)

合コンで楽しむためには、異性からモテなきゃ意味がない、と参加する大多数は思っている。そのときの役割(幹事として、盛り上げ役として等)をフル活用して同性を牽制しあいながらの自己顕示合戦になる。自分を強く前に押し出しすぎてもダメである。空気読め、と視線が刺さる。等身大の自分より少しだけカワイイ、もしくはカッコいいところを小出しにしながら、魅力をアピールする。

アピールするところも異性の団体によって変わる。美大生同士の合コンだったら、ナントカ広告賞を取ったなどとサラリと言えば尊敬のまなざしと共に、後日のメール返信率も高いだろう。しかし、一般大の異性にそういう専門性のある話をしても、全くカスリもしないことが多い。美大という言葉自体が初めて聞く人もいるのだから、もっと入り口の話をするべきだ。
視覚伝達デザイン学科なんて、口に出して言うと、何がなんだかわからない。彼らにとって「しかく」は「四角」や「資格」の方が馴染みがあるのだし。
結局、学科を聞かれると私は「ポスターとかCMとか映像とか作ったりしてる学科なの」等という。彼らとの接点は、私達の卒業後の仕事内容である。内容といっても、巷にあふれる媒体等の「結果」のみである。「結果」以前のプロセスに関しては、制作する者しかわからない部分が多いので、端折る必要がある。


そう考えると、合コンの経験を積むと、対人能力が付きそうである。まったく初対面の人間に自分を売り込む行為だからである。(もちろん、同時に異性の審美眼も必要なのだけど。)回数を重ねるごとに様々な人間に出会い、その都度、言葉と行動で目的の為の駆け引きを行うことは、客観的立場を意識せずにはいられない状況になり、常に自分を磨き上げることに前向きになると思う。

私自身、合コンが苦手である。常に新しい人に会うことは刺激的でいいのだけれど、「女性」として見られる分、相応の振る舞いをしなければならず、普段どおりの動きが鈍ってしまうからである。言い換えると、私は日々、「女性」を意識するような生活をしていないのだ。(これは考え方によっては問題なのかも)

合コンという場では、その時に演じるべき女性像と、「見せたい自分」像とが齟齬をきたしてしまうのだ。
残念ながら
多くの情報を受けて一番感情的になるのは
目からの情報ではなくて
鼻と耳からである。
においと音。
ビジネスとして市場に出回ったり、ヒトが感じる多くの情報は、視覚的なものだが
言葉にしやすく、バーチャルに作ることができる分、そのものに近づけることができない。
写真は一番本物に近い嘘だ。
においと音はそのものが真実に近い分、ニセモノが登場しにくい。
あの時、あの場所で聴こえた音楽
あの時、あの場所で嗅いだにおい
それを今、体に受け
私は縛られている。
心臓にこたえる。
金縛りのような痺れが、私の時間を奪うのだ。
理屈・理性の世界=すべてがバーチャルで成り立つような感覚の状況において
思考をかき乱すこの2つの感覚分野は非常に重要だ。
私たちが住む言葉で発達した世界の中で、この二つの分野は発達できないからである。
成熟できない分野であり、理屈では簡単に踏み込めない場所で
そこで
ヒトは丸裸になるしかないのである。
視覚伝達という視覚情報をどう扱うかという学科の生徒としては酷い扱い方をすると思うかもしれないが
私は視覚を操るヒトほど、ほかの五感の存在を知るべきだと思うのである。