鷹峯の常照寺は艶めいて | がいちのぶろぐ

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今日の京都市内は、とうとう最高気温が30℃を上回って真夏日〟となった。昨日までは、薄いセーターを上に着ていたけれど、今日はさすがにそんな恰好は無理だった。

 

今日の午前中は、京都市の北部・鷹峯にある常照寺へ出掛けていた。このお寺は、徳川家康から鷹峯に土地を与えられ、この地に工芸村を開いていた本阿弥光悦が土地を寄進した。

 

 

 

そして、日蓮宗中興の祖と言われる日乾上人が開創した、「鷹峯檀林(学寮)」の旧跡とされている。だからすぐ近くには、本阿弥光悦にゆかりの光悦寺もある。

 

 

(常照寺の前にある台座に檀林と彫られた石碑)

 

今までも、光悦寺やこの常照寺の紅葉を見物するために来たこともあるし、また「悟りの円窓と迷いの四角窓」で知られる源光庵も、すぐ近くにある。

 

 

(源光庵の悟りの窓・迷いの窓)

 

そんな鷹峯だが、我が家からこの常照寺までは、バスを乗り継いで行くので、小1時間ほどかかってしまう。それで今日は、常照寺に11時過ぎに着くことになってしまった。

 

常照寺の山門は、通称「吉野門」と呼ばれる朱塗りの門。現在は島原という場所に移っているが、かつては六条三筋町にあった、幕府公認の遊郭の名妓・二代目吉野太夫が寄進した。

 

 

 

この吉野太夫は江戸時代初期に、江戸・吉原の高尾太夫、大坂・新町の夕霧大夫とともに寛永の三名妓とされ、和歌・書道・茶道に琴・琵琶など、才色兼備をうたわれた名妓だった。

 

この吉野太夫を贔屓にしたのが、後陽成天皇の皇子で、近衛信尹の養子である関白・近衛信尋や、京都の豪商・灰屋(佐野)浄益などがいた。

 

その吉野太夫は、結局、灰屋浄益と結婚をすることになるのだが、同時にこの常照寺の開創・日乾上人に深く帰依して、山門を寄進することになったのが「吉野門」の由来である。

 

だから今日に至るまで、4月の桜の時期に「島原の太夫」による「太夫道中」が行われ、多くの観光客を集めている。

 

というか私も、今年はコロナ禍からようやく復活した、この「太夫道中」を見物に行きたかったが、ちょうど2回目のカテーテル手術で入院する直前の時期だった。

 

ということで、昨日から常照寺では、秘仏を含めた特別公開が行われているので、それを目当てに出掛けたのだが、これがなかなかの人気で、けっこうな人出になっていた。

 

 

 

(秘仏の妙見菩薩の像は50cmくらいで思いのほか小さかった)

 

秘仏などはもちろん撮影禁止だが、本堂の裏庭には、吉野太夫好みのデザインと言われる、大きな丸窓(通称・吉野窓)のある茶席「遺芳庵」もある。

 

 

 

 

また吉野太夫のお墓の他に、吉野太夫と灰屋浄益の二人を偲んで建てられた「比翼塚」や、女性とは切っても切れない(はず)の「帯」に感謝する「帯塚」などもある。

 

 

 

(二人の戒名が彫られた比翼塚)

 

このように、常照寺というお寺は、かつては日蓮宗の学寮(檀林)として、多くの僧侶が修行をする場でもあったけれど、今はどことなく艶めいたお寺という雰囲気になっている。

 

 

(帯塚の石碑はどことなく帯を思わせる形の吉野石でできている)

 

それにしても、この季節はもう庭全体が「青紅葉」に彩られていて、それはそれで今日の好天と相まって、気持ちが良い眺めになっていた。

 

 

 

 

帰路は、偶然にバスが出てしまったところだったので、ブラブラと坂を下りながら、バス停2つ分歩いたところで次のバスが来る時刻になり、それに乗って帰って来た。

 

 

(門の外には灰屋浄益が吉野太夫を偲んで詠んだ和歌が)

 

それにしても、真夏日になってしまって、さすがに太陽に当たりながら歩くのは、汗びっしょりの散歩という塩梅だった。