近ごろ都にはやるもの | がいちのぶろぐ

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環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

とてもよくできた画像が、X(旧・ツィッター)上に出回っているのを発見した。

 

ご覧いただければ〝一目瞭然〟と言うほかないが、この市民vs自民という言葉の対比の妙。何とも素晴らしい。そして市民には増税、自民には脱税という、現在の状況がくっきりと。

 

 

 

こんな内容の画像を作成したり、それをSNSに掲載したり、さらに拡散したりしても、今のところは、逮捕されることもなければ、SNSが削除されることも少ない。

 

少なくとも、これが〝言論の自由〟という基本的人権だと思う。自分の意見を言うことが、即、肉体的な拘束や拷問につながったり、時には闇から闇に葬られたりすることもない。

 

民主主義を守るということ、基本的人権が守られるということは、自分の意見や主張を〝何らかの束縛なしに言うことができる〟という、たったその一点だと思う。

 

だけど、こうした基本的人権は、勝手に向こうから転がり込んできたものではない。かつてはこの国も、徹底的な言論統制を敷いていた時期がある。

 

〝おいこら警察〟などと言っても、若い人にはピンと来ないだろう。選挙演説などにも警察官が立ち会って、〝弁士、中止!〟と言っていたことなど、もう誰も知らない時代。

 

私たち〝団塊の世代〟と言われる、戦後民主主義の真ん中で育った人間は、周りにいる実際に戦争と関わった人たちから、それこそいろんなことを聞いて育ってきた。

 

だから基本的人権を考えるに際しては、右翼的言辞とか左翼的思想とか、そういった簡単な〝くくり〟では事の本質は捉えることができないのは当然だ。

 

その点、自民党の杉田水脈議員が民族差別を煽る言葉を並べ立てて、〝私は保守派だ〟と言うのは、決して保守派でも何でもなく、単に基本的人権を否定しているに過ぎない。

 

彼女が、保守という言葉で表現しようとしているのは、とても醜い差別思想であって、そんなものは保守〝主義〟でもないにも拘らず、一定数、こうした発言を評価する人がいる。

 

民主主義というのは、本質的には、市民が主体的に〝くに〟を治めることを目指す思想的営為である。こんな当たり前のことを、権力的な暴力で圧し潰されてはならない。

 

〝くに〟を支える根幹となる「義務」として、〝くに〟で生活している人たちは、等しく納税をする。それを仮に権力的に否定するようなら、〝くに〟は成り立たない。

 

今日、旧・ツィッターで目にした選挙ポスター風の戯画は、このことを〝非権力者〟の側から、精一杯に訴えたものだ。怒りというよりも、これを見たら悲しみが先に立ってしまう。

 

たった一枚の戯画であるけれど、『二条河原の落首』が「近ごろ都にはやるもの」として訴えたと同様に、この戯画が市民の側の反乱の狼煙のようにも思えて来る。