御所西地域の散歩に行ってみた | がいちのぶろぐ

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日本大学アメリカンフットボール部の廃部が、内部的には決まってきたようだ。まだ正式な発表にはなっていないけれど、各メディアがそのように報道している。

 

現在の4年生は2020年4月に入学している。これは、例の悪質タックル事件が2018年春に起こった後で入学したことになる。

 

悪質タックル事件の後、外部者による選考委員会を作り、新しい監督やコーチを選ぶことになり、その結果18年9月には、元立命館大学コーチの橋詰功氏が新監督に就任した。

 

こうして体制を一新して出直したアメリカンフットボール部だったが、橋詰氏は21年8月に3年の契約期間が終了したとして、再任を求めても認められずに日大を去った。

 

日大は〝ほとぼり〟が冷めるまでの間、外部向けに出直しの姿勢を見せていたように思える。ただ橋詰氏の努力で、3年目には甲子園ボウルで関学と対戦するまでになっていた。

 

それでも3年間だけで、橋詰氏はいわば追われるようにチームの指導から去り、その後、日大一高~日大でアメリカンフットボール部員だった、OBの中村敏英氏が就任した。

 

という経緯で、今回は合宿所内の出来事での逮捕者が3名にもなるという、情けない状態になってしまった。さらに、これが大学トップの泥仕合にまで発展してしまった。

 

そして最終的には、最悪の結果である〝廃部もやむなし〟という状態に至った。こうなった以上、スポーツ推薦で入学した1~3年生は、この先どのような処遇になるのだろうか。

 

また中村監督や部長だった方の管理責任は、今後どのように問われることになるだろう。事と次第では損害賠償責任や、他所での活動保障といった可能性も出てくるかもしれない。

 

といった日大のこととは全く関係なく、私は今日の午前中、御所西地区と言われる場所を散歩していた。今出川通~丸太町通間の、烏丸通~室町通をジグザグに歩いていた。

 

 

 

地図を見てもらえば解りやすいが、そんなに距離があるわけではない。南北1.5km、東西は100m余りという感じだ。ここを北から南へ、その間に東西を行ったり来たりしていた。

 

 

 

最初は烏丸今出川から南へ向かい、烏丸一条の「とらや」へ。と言っても何も買わず、カフェにも立ち寄らず。それから、金剛能楽堂から京都府民アルティホールの前を通過。

 

 

 

 

その南にある平安ホテルは、コロナ禍の最中に営業不振ということで閉鎖してしまった。烏丸通を離れて少し室町通を通り、下長者町通で護王神社の横の入口から境内に入る。

 

 

 

この神社は、和気清麻呂と姉の和気広虫を祭神としており、弓削道鏡によって薩摩へ流された清麻呂が、道中で猪の大群に救われたという伝説から、猪が神使とされている。

 

 

 

 

だから境内には猪の手水舎だったり、狛犬ならぬ狛猪だったり、猪のコレクションだったりと、〝猪尽くし〟の神社になっている。

 

 

 

 

 

ご神木のオガタマノキの足元には、願いことを書いて串に差し、〝願かけ猪〟の石像のまわりの土に突き立てる、「座立猪串(くらたていぐし)」がたくさん立てられている。

 

 

 

また例年、早々と翌年の干支の大絵馬を掲げることでも知られており、今年もすでに来年の辰年にちなんで、「青龍」の絵馬が拝殿の前に掲げられていた。

 

 

 

この神社で、猪の土人形に入ったお神籤を授けてもらったところ、出て来たのは「大吉」という結果に。ついてるなぁ。ただ「願望 自分で勝ちとれ」となっていた。オイ、オイ。

 

 

 

 

 

護王神社の少し南、下立売通の角からは平安女学院の建物が連なっている。というよりも、旧・有栖川宮邸や聖アグネス教会など、平安女学院が所有している歴史的建造物がある。

 

 

 

 

聖アグネス教会の南には、烏丸通に面して菅原院天満宮もあるけれど、今日はそちらへは寄らずに、平安女学院の建物に沿って室町側へ行く。

 

 

 

室町通の角には「旧二条城跡」の碑がある。現在の二条城とはかなり離れているが、こちらは織田信長が足利15代将軍・義昭のために建てた城郭。その記念碑が建てられている。

 

 

 

 

さらにその斜め向かいには、「斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址」という石碑がある。室町幕府の管領家だった斯波氏の邸跡で、そこに13代将軍・足利義輝が邸を構えた。

 

 

 

 

この将軍・義輝は、戦乱の世で京を追われて近江の国に逃れていたが、都に戻ってこの地に邸を構えたものの、最後は「永禄の変(1565)」で三好三人衆と松永久通に討たれる。

 

ただ、都の人たちは公家や武家、庶民も義輝側を支持したらしく、義輝自身は大奮戦をしたものの討たれたが、討った三好三人衆と松永久通は、大群衆に追われる結果になったらしい。

 

 

 

この碑を過ぎたところから烏丸通に戻り、最後は烏丸丸太町でバスに乗って帰宅した。散歩していたのはわずか1時間余りだったけれど、けっこう楽しいポイントがあった。