一昨日、京都・南座の前に「まねき」が上がったそうだ。まず何よりも、「まねき」って何?という方も少なくないだろう。京都の以外にお住まいの方は、特にそうかもしれない。
京都の師走は、南座で行われる「顔見世」興行が一年の締めくくりとなる。いわば、これが年中行事となっている。南座で、およそ1か月間「歌舞伎」の公演が行われるのだ。
(今年初めの南座の風景)
「歌舞伎」は江戸時代になる少し前に、出雲阿国(いずものおくに)という女性が、京都の〝北野天神〟の境内などで踊りを披露し、これが人気を呼んだことに始まるとされている。
この出雲阿国たちの踊りは、『異性装』を中心とした舞踊の出し物だったとされており、その姿かたちが「傾き者(かぶきもの)」と呼ばれるものだったらしい。知らんけど。
(四条大橋のたもとにある「出雲阿国」像)
「傾き者」の元の言葉となる「傾(かぶ)く」は、〝異風・奇矯な身なりをしている人物〟を表現する言葉だとされている。
戦国大名の佐々木道誉は、南北朝時代の社会的風潮だった〝ばさら〟というスタイルを好んだらしい。道誉の〝華美で奇抜な行動〟を指して、〝ばさら大名〟と呼ぶこともある。
〝ばさら〟とは、Wiki Pediaによれば「権威を軽んじて嘲笑・反撥し、奢侈で派手な振る舞い」をすることのようで、それが「傾き者」と意味的に重なって行ったと思われる。
つまり、「傾き者」とは〝世の常ならざる者〟の身なりをしている人物であり、それが『異性装』で舞踊を見せる出雲阿国たちに当てはめられていった、ということになる。
(南座の横にある「出雲阿国」旧跡の碑)
しかもこの〝傾き踊り〟は、内側にエロス性を漂わせていたのだと思われる。だから、〝風紀を乱す〟として取り締まられ、女性から「若衆」が演じるものへと変化する。
しかしここでも、また〝風紀を乱す〟として取り締まりの対象になる。結果として「野郎歌舞伎」と言われる、〝男優だけ〟による舞踊劇という形式が成立して行った。
男優だけで劇を演じるため、女性の役を演じる男優が生まれ、これが今日に続く「女形(おやま)」となった。現在、この「女形」の名優とされているのが、中村玉三郎丈である。
こうして江戸時代には、「野郎歌舞伎」が庶民の一大娯楽として確立された。江戸では、初代中村勘三郎に始まり、〝荒事〟をお家芸とする初代・市川團十郎なども現れた。
ということで江戸時代には、翌年1年間の芝居小屋への出演契約を結んだ役者が、旧暦の11月ごろに「顔見せ」と称して、お披露目されるのが常だった。
来年、この芝居小屋は、このメンバーで上演しますからよろしく、という意味合いの舞台挨拶を行ったりした。この風習を今も引き継いでいるのが、南座の顔見世興行となる。
それで、だいたい師走は旧暦の11月でもあり、来年向けという時期的なものもあり、ということで、京都の南座では年末恒例の「顔見世」が今も行われている。
もちろん今では、南座という芝居小屋の来年の出演契約ということでも、また来年一年は通してこのメンバーで、ということでもないけれど。
ただ、芝居小屋はお客にアピールするため、小屋の表に出演者の名前を大書した名札を掲げ、お客を呼ぶためのPR道具とした。これを「まねき看板」、略して「まねき」と言った。
(以前の顔見世で、まねきが上がった光景)
それにならって、現在も南座の顔見世興行では、出演する歌舞伎役者の名前を書いた「まねき」が、劇場の正面に掲げられることになっている。
この「まねき」上げが昨日行われ、今週の12月1日から24日まで、顔見世興行が実施される。しかも今年は「十三代目市川團十郎白猿」の襲名興行となっている。
(昨日の新聞紙面の写真)
江戸時代に、初代市川團十郎が、〝荒事〟と言われる芸風を確立し、その後、七代目團十郎の代になって、〝市川宗家のお家芸〟として18番の歌舞伎演目を制定した。
これが「歌舞伎十八番」として、今も伝わっている。私たちも、カラオケなどで〝私は絶対この歌を歌うぞ〟という曲を、「十八番」とか「おはこ」などと言ったりする。
ちなみにワープロで「おはこ」と入力すると、「十八番」と変換される。つまり、「おはこ=十八番=得意(自分なりの持ち歌)」ということで、「歌舞伎十八番」から来ている言葉だ。
(同 上)
ということで、今年は市川團十郎とともに、息子が初舞台で「八代目市川新之助」の襲名披露をする。さらに、娘の「市川ぼたん」も南座の舞台を踏む。
先ほども述べたように、歌舞伎では女性の役も男性俳優が演じることになっている。だから通常であれば、女性俳優が歌舞伎の舞台に立つことはない。
市川ぼたん丈は12歳だが、とにかく女性である。南座の顔見世の舞台に女性俳優が上がるのは、1968年の〝片岡みどり〟以来ということらしい。実に55年ぶりのことである。
そんなことで、いよいよ今週は12月、師走を迎える時期となった。