嵯峨の宝筐院は静かな紅葉の穴場だった | がいちのぶろぐ

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今日は、京都の「紅葉の穴場」を求めて午前中から出掛けていた。この週末に間に合うように、今日は必要な説明と、後は写真を見てもらおうと思う。

 

出掛けた先は「宝筐院」。絶対に穴場だと思ったので行ってみた。大正解だった。もちろんガラガラということではないけれど、静かに楽しむ大人な雰囲気だった。

 

 

 

「宝筐院(ほうきょういん)」と読む。場所は「嵯峨野」。嵯峨釈迦堂・清凉寺のすぐ西にある。普段は公開していないお寺。春と秋だけ公開する。拝観料は500円也。

 

 

 

市バスの「嵯峨釈迦堂前」までは、我が家からバスを乗り継いで1時間はかかる。JR京都駅前からであれば、直行の「嵐山・大覚寺」行きの28号系統に乗ってやはり1時間ほど。

 

嵐山を通る以上、バスがとても混むことは覚悟する必要がある。とにかくこの時期の嵐山の人出は、外国人だけでなく日本人の観光客も押しかけるので半端じゃない。

 

始発の「JR京都駅前」バス停でも、すでに長い行列ができているから、人の並び具合によっては1本見送ることになるかもしれない。

 

それはともかく、「嵐山」のバス停でドッと下車してしまい、そこからバス停で3つ先になる「嵯峨釈迦堂前」まで行く人は少ない。

 

「嵯峨釈迦堂前」で下車して、すぐの信号のところを左折し、少し行くと有名な豆腐屋さん「森嘉」があり、さらに少し行くと嵯峨釈迦堂清凉寺の大きな仁王門がある。

 

 

(清凉寺の仁王門)

 

これを右に見ながら通り過ぎて、道の突き当りまで行くと「宝筐院」がある。降りたバス停から、ものの3分も歩けば着いてしまう。

 

この「宝筐院」は、平安時代に白河天皇によって建てられ、「善入寺」と名付けられた。その後、足利幕府の二代将軍・足利義詮によって伽藍が整備された。

 

 

 

1367年に足利義詮が没したのちにこの寺が菩提寺となり、義詮の院号にちなんで「宝筐院」と名付けられた。

 

ところでまだ「善入寺」だった1348年に、その時期に続いていた南北朝の合戦の中、南朝側の武将で楠木正成の子息の楠木正行(小楠公)が、四条畷の戦いで討ち死にした。

 

 

 

その当時の「善入寺」の住持だった「黙庵周瑜」が、生前に交流があった楠木正行の首級を善入寺に葬ったという。その首塚が、今も「宝筐院」に残されている。

 

 

 

この話を聞いた足利義詮は、正行の人柄を褒めたたえ、自分もその傍らに葬るように、黙庵に頼んだのだそうだ。だから、南北朝の戦いでは敵同士だった二人が並んで葬られている。

 

 

 

この「宝筐院」は、応仁の乱以後は衰退していたが、1917(大正6)年になって、楠木正行の菩提を弔う寺として再興された。

 

 

 

何と言っても足利幕府は、南北朝の時代に後醍醐天皇を倒して成立したのだから、明治時代になって天皇親政の世になれば、足利尊氏らは皇室に弓を引いた賊軍という扱いになった。

 

そうなれば、楠木正成・正行親子は、最後まで後醍醐天皇にお仕えした忠臣中の忠臣ということになる。だからこそ「宝筐院」も、あらためて日の目を見たと言っても良いだろう。

 

 

 

京都の時代祭では「楠公上洛列」として、島流しにあっていた後醍醐天皇が、隠岐から京へ還幸される時に、上洛を先導した楠木正成の行列があるくらい。

 

 

 

一方で、「室町幕府執政列」(室町幕府将軍たちの行列)は、2007(平成19)年!になってやっと参加した、というくらい、根深い因縁話も存在している。

 

足利幕府が出来てから670年の時を経て、京都の町衆から〝足利幕府があった〟ということを、やっと認められたのだから。

 

 

 

ところが、その京都で代表的な観光スポットで、世界遺産の嵐山の天龍寺は足利尊氏、金閣寺は足利義満、銀閣寺は足利義政が建立している。〝なんのこっちゃ〟というしかない。

 

というような話が、この「宝筐院」にはついて回っている。というよりも、ここは嵐山から竹林の小径、嵯峨にかけての観光客の喧騒が、全くと言っていいほど感じられない。

 

 

 

確かに今日も、それなりには観光客が来られていたが、ほとんどは日本の私と同世代の方々(つまり高齢者です)で、皆さんが静かに庭の紅葉を楽しんでおられた。

 

それほど広いお寺ではないけれど、それでも随分と見応えのある紅葉だった。今日はあと2カ所回ったので、それも後日に報告しようと思う。