悪しき〝体育会的〟組織が生み出すもの | がいちのぶろぐ

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旧ジャニーズ事務所に続いて、今度は宝塚歌劇団が「文春砲」の狙い撃ちにあっている。ただし、2つの事件の間にある違いというか、異なる構図も見えてきている。

 

旧ジャニーズの問題では、一人の加害者が引き起こした〝性加害〟であると同時に、その加害者が率いる芸能事務所が、テレビ局に影響力を持つことで事件が矮小化されてきた。

 

個人の性加害が〝大事件ではない〟と認識し、そのまま対応して来なかったテレビ局側も、法律的ではないにしても、社会的には同罪であることは間違いない。

 

こうした認識であれば、この先どのような展開になるにしても、旧ジャニーズ側は被害を訴える人たちへの誠意ある補償と、心的被害への対応に配慮する必要がある。

 

残る問題は、テレビ局側が口を拭ってほとぼりが冷めるのを待ちながら、なおも旧ジャニーズのタレントを使い続けるという矛盾を、黙って押し通すことを社会が認めるか否かだ。

 

誰が番組やCMに出演するのかなど、ジャニーズ・ファン以外にはある意味どうでもいい話だ。番組に出演するタレントが、その番組に適応するかどうかだけの問題だから。

 

それに対して、自死者を出した宝塚歌劇団の問題は、その原因を突き詰めて行けば、もっと根が深いところから発生しているという気がする。

 

そこにあるのは単なる〝いじめ〟の問題というよりも、私たちが何となく許容してしまっている、〝体育会的〟な体質とも関わる問題だと思うから。

 

ここではっきりしておきたいのは、軍隊組織と体育会組織の相違である。軍隊では原則として『上意下達』が徹底される。部下の生死を左右するからこそ、上官の命令は絶対である。

 

それは軍隊が戦闘行為を前提とした組織であり、戦闘時にあって敵を〝せん滅〟するために〝最適な行動〟をとることが軍隊の組織原理である、という一点に絞られる。

 

だから軍隊であっても〝戦闘行動及び訓練時〟以外は、構成員の人権が尊重されるという大原則は、絶対に守られなければならない。この点は、誤解してはならない。

 

『上意下達』の原則は、戦闘行動及びその訓練時においてのみ認められる原則であり、例えば隊舎内での日常生活の場面では、〝上官の命令〟が絶対ということでは決してない。

 

その点だけを押さえた上で、報道を見る限りでは、宝塚歌劇団内部における上下=先輩・後輩関係は、徹底的に〝体育会的〟色彩が強い。それも、非現代的な意味での体育会組織だ。

 

現在は体育会の活動でも、〝先輩の命令が絶対〟などと言うことはほぼ通用しなくなっている。高校の野球部などに、〝丸坊主が正しい〟というような意識が残ってはいるが。

 

それよりも、〝先輩の指導〟に対して、後輩は歯を食いしばって努力し、応えて行くことが正しいという〝気風〟を持っている人間は、むしろ〝実社会〟の中に少なからず残っている。

 

これが、〝体育会的〟と言われる所以である。つまり先輩の言うことに〝合理性〟が無くても、ということは〝無茶ぶりだろうと何だろうと〟従わざるを得ない、という話である。

 

今回の宝塚歌劇団の発端となった件も、そこには「清く、正しく、美しく」というモットーが、いっさいの主語も述語もなく〟機能してきたというところに問題があったように思う。

 

「清く」とは誰が、何に対してなのかとか、「正しく」とはどうした事象に対して正しいのかといったことは、何の疑いもなく〝先輩の言うことは〟という主語が置かれていた。

 

これこそが、今では非現実的なこととなりつつある、〝体育会的なるもの〟ということだ。だけど私たちの潜在意識の中にも、この〝無目的な服従〟が刷り込まれてはいないか。

 

軍隊での命令とか体育会での指導は、本来、その組織の存在目的である、戦闘に勝つとか、試合に勝つとか、自己の記録を伸ばすといった、正当な目的に対してなされるものだ。

 

だがそれがいつの間にか、〝先輩だから無条件に正しく、すべてが許される〟という勝手な論理にすり替わってしまう。こんなことには、正当性はいっさい認められない。

 

では、命令・指導とパワハラの間に一線はあるのか、という問題になる。それは、軍隊で上官に権限があるのは、その許される〝場面が限定される〟という一点に存在している。

 

ならば、舞台などの練習であれば、先輩が注文を付けたり、叱ったりすることもあるではないか、となる。だが、残念ながら先輩には権限が無い。あるのは演出家や指導者である。

 

先輩は後輩の相談に乗ることはあるだろうけれど、指導することは基本的にはあり得ない。それは監督であり、演出家であり、指導者が行うことだという役割分担が求められる。

 

つまり、それぞれが〝本来行うべき場面での役割分担〟という以外には、不規則な指導などは存在しないし、存在してはいけないということを、社会が認識することが必要だ。

 

歯を食いしばって頑張るのは、本人がそうしたいと思ってやるもので、他から強制すべきものではない。その原則を破れば、むしろ罰則が与えられるとなるべきなのだ。