「空也忌」で空也堂の歓喜踊躍念仏を拝観 | がいちのぶろぐ

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今日は午後から、少し変わった催しが行われたので出掛けていた。出掛けた先は、四条堀川を少し北へ行った東側のお寺。すぐ横には、京都の進学校の堀川高校がある。

 

 

 

お寺の名前は「紫雲山光勝寺極楽院」と称するが、一般的には「空也堂」として知られている。いや、知る人ぞ知るお寺だ。〝あの空也上人〟が開創したという。

 

 

 

空也上人は、口から六体の小さな仏さまが飛び出している、運慶の子の康勝・作の彫刻で知られている。彫刻は六波羅蜜寺にあり、美術の教科書などにも載ることがあるほど。

 

 

 

その空也上人は10世紀前半に、首から下げた鉦を叩き、鹿角の杖を手にして、人々に念仏の功徳を説いて回った「市の聖」として知られている。

 

という空也上人の「空也忌」が、今日、この極楽院空也堂で行われた。だから出掛けていた。

 

 

 

「空也忌」は午後1時から献茶式で始まり、その後は「空也僧」による「歓喜踊躍(かんきゆやく)念仏」が奉納され、「千本六斎会」による「六斎念仏」の奉納があった。

 

「歓喜踊躍念仏」とは、空也上人が市中で鉦を叩き、あたかも踊りを踊るがごとく、跳ね歩きながら念仏の功徳を説いて回ったことに由来している。

 

 

 

 

だから今日も、空也僧の方々が鉦・瓢(ひょうたん)・太鼓を打ち鳴らしながら堂内をぐるぐる回り、最後の和讃に至って、大きく足を上げて踏み下ろしながら経文を唱えた。

 

 

 

 

つまりこの「歓喜踊躍念仏」は、空也上人が行った説法の姿を取り入れている、と言われている。これと似たような「踊躍念仏」は、年末に六波羅蜜寺でも行われている。

 

また「千本六斎会」は、昨日のブログに書いた「千本ゑんま堂・引接寺」の大念仏狂言と同様に、「千本ゑんま堂」界隈に伝わって来た「六斎念仏」を継承している団体だという。

 

 

 

実はこの「六斎念仏」というものの起源も、たどれば空也上人の「踊躍念仏」に行き着くと考えられているが、いろいろな起源の説もあるらしい。

 

 

 

ただし、現在は宗教的演目中心の「念仏六斎」という六斎念仏を伝える団体もあれば、今日の「千本六斎会」などのように「芸能六斎」と言われる六斎念仏を演じる団体もある。

 

 

 

今日は本堂のスペースが狭くて、天井も低かったので行われなかったが、「芸能六斎」では積み上げた碁盤の上で倒立する獅子舞と、土蜘蛛の派手な芸がよく演じられる。

 

 

(広い舞台ではこういう具合の「獅子舞」も披露される)

 

ということで今日は、鉦・太鼓・篠笛の演奏と、少しの手踊りがご披露された。ただ、太鼓の打ち分けでは、小さな子どもも立派に〝四ツ太鼓〟の打ち分けを見せていた。

 

 

 

 

 

「千本六斎会」の「六斎念仏」奉納の後で、「王服茶」の振る舞いもあったが、私は順番が随分と後だったし、お堂にずっといて体も冷えていたから、待たずにここで失礼した。

 

普段、この「極楽院空也堂」は、ピッタリと扉が閉ざされて拝観謝絶のお寺だが、こうして年に一度の「空也忌」だけは一般に公開される。

 

 

 

ただ、かつてのお寺は応仁の乱の戦火で焼け、その後に建て直されたお寺の本堂も、第二次大戦の際に取り壊されてしまったそうだ。

 

 

 

それで、現在、本堂として使われている建物は、狭い庫裏を改造したものらしい。だから今日も100人ほどの拝観客で、お堂の中は〝いっぱいいっぱい〟だった。

 

それにしても今日の「空也忌」では、滅多に見られない空也上人ゆかりの「歓喜踊躍念仏」を見ることができた。