河井寛次郎記念館が開館50周年の年で | がいちのぶろぐ

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風立ちぬ、ではなく「冬立ちぬ」である。今日は二十四節気の「立冬」。しかし京都市の最高気温は22℃で、これまでの夏日からは下がったものの、やはり「暖かい」日になった。

 

そして何より、今日もまた真っ青な空。とはいうものの、今日の午前中はなんとなく出掛けるタイミングを逃してしまったので、昼食後に散歩を兼ねてちょっと出掛けていた。

 

その行先は、ずっと〝行きたい〟と思いながら、何となく〝行きそびれていた〟という感じの場所である。しかも我が家から、決して遠い場所ではない。

 

ということで、今日はその場所へ行くことにした。そんな〝大げさ〟なものではないけれど、なぜか今まで行ってなかった。そのこと自体が、むしろ不思議なんだけど。

 

 

 

持って回った言い方になったけれど、今日は「河井寛次郎記念館」に出掛けていた。ご存じの方が多いと思うけれど、河井寛次郎について簡単におさらいをしておきたい。

 

 

 

河井寛次郎は1890(明治23)年に、島根県の現在の安来市で生まれた。東京高等工業学校(現・東京工業大学)を卒業後、京都市立陶磁器試験所で研究制作に励んだ。

 

30歳の時に、現在記念館となっている場所に自身の住居と『登り窯』を設けた。その後、すぐに創作陶磁器展を開き、「突如、彗星が現る」というほどの高い評価を受けた。

 

 

 

1924年には柳宗悦と出会い、柳が提唱した「民藝運動」に共鳴して、浜田庄司、富本憲吉とともに、4人連名の「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した。

 

「民藝」とは「民衆的工藝」の略語で、日用雑器などの中に美を見出すという「用の美」という言葉に象徴される、無名の職人による〝民衆的美術工芸の美〟の発掘運動だった。

 

ということで、河井寛次郎は陶磁器の制作を通して、「用の美」を追い求めた陶芸家だった。その河井が住んでいた住居兼仕事場が、そのまま現在は記念館となっている。

 

 

 

河井は1966年に永眠し、家族がその住居兼仕事場を、1973年に記念館という形で公開した。それから今年が、記念館の開館50年という節目の年に当たっている。

 

 

 

という河井寛次郎記念館に、私は行きたいと思いつつ行けてなかった。そして今日、初めて出掛けたということになる。我が家からは、そんなに遠い場所ではないのだけれど。

 

記念館があるのは、東山五条の「五条坂」交差点から南西に、歩いてもほんの数分という距離で、いわゆる「茶わん坂」と呼ばれる地域からもすぐのところ。

 

表を見れば普通の民家にしか見えない。ただ、東大路通から一筋西へ入った場所で、東大路通から見れば一段下がった地形になっている。ほんの少しだが坂の下という感じである。

 

 

 

だから、この住居兼仕事場の一番東側には、登り窯が築かれている。表に居間や客間などがあり、中ほどに轆轤(ろくろ)が置かれた工房がある。そして奥に登り窯が作られている。

 

 

(工房/丸い台が轆轤)

 

また工房の向かい側には、素焼き用の窯が設けられている。陶器は、轆轤などで成形した後、乾燥をしてから素焼きを行い、それに彩色や絵付けをしてから釉薬をかける。

 

 

(素焼き窯)

 

それを登り窯で本焼きする。本焼きは、1200~1300℃ほどの熱で焼き上げて完成品となる。いったん本焼きを始めると、焼き終わるまで不眠不休の作業となる。

 

 

(登り窯)

 

河井の時代は、轆轤も電動ではなく足で蹴って回していた。また、登り窯はガス窯などとは違って、松の薪をくべて風を送り高熱を得る。しかも、薪を絶やさないように窯番をする。

 

だから窯に火入れをすると、焼き上がるまでの2,3日は、窯の前に付きっ切りという状態になる。登り窯は階段状に傾斜させて窯を築き、熱と火が上に上って行く。

 

 

(登り窯が階段状になっているのがわかる)

 

窯が冷めて、焼物を取り出すまで、仕上がりの状態は誰にもわからない。まさに「土と炎の芸術」ということになる。時には神が降りてきて、「窯変」ということが起こる。

 

窯の具合や、窯の中の置き場所、灰の被り方、そして火の加減によって、制作者が期待したよりも、はるかに上をゆく焼き上がりの製品が生まれることもある。これが「窯変」だ。

 

 

 

また河井寛次郎は、「民藝運動」の活動で「用の美」を追求した中年期の作風を越えて、「土と炎の詩人」と呼ばれるようになり、晩年には造形そのものが新しい境地に達したといわれている。

 

こうして記念館を隅々までグルッと回って、置かれている作品群を眺め、窯や工房を見て回れば、さして広くはない記念館でも30分ではまったく足りなかった。

 

記念館を出てからは、散歩を兼ねて南座の前まで歩いて行った。歩いた距離としては、せいぜい3kmというところだろう。今日は、数日前ほどは暑くなくて助かった。

 

それでもメタボ爺さんの私は、家に帰ればシャツを取り替えないと、風邪をひきそうに思える程度には汗をかいていた。