妙法院の庫裏の解体修理の見学会 | がいちのぶろぐ

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文化の日の祝日で3連休の初日。だから様々なイベントが、それこそ盛り沢山に各地で行われている。私も今日は、寺院にある国宝の建物の〝解体修理〟の現場見学に。

 

それに先立って、朝から新聞を見ていたら、今日は秋の叙勲の発表が行われていて、私の知人の方のお名前がその叙勲リストに。

 

だからといって、何をどうするわけでもないけれど、何だかこちらまでそれなりに嬉しい気分になれた。まずは、〝おめでとうございます〟と、心の中でお祝いを申し上げておいた。

 

今日、私が出掛けたのは「妙法院」というお寺。東山七条の交差点に面して、南は智積院、西は京都国立博物館、背中になる東側には京都女子大学、という位置にある。

 

 

 

 

ここは由緒正しいお寺で、山号が「南叡山」というくらいだから、比叡山延暦寺と実に密接な関係。ここへ尊性法親王が入寺されて以来、三千院・青蓮院と並ぶ天台宗三門跡の一つ。

 

 

 

「後白河上皇が新熊野神社を勧請する時に比叡山西塔本覚院の昌雲が別当となって開創」と、「京都・観光文化検定」の〝公式テキストブック〟には記述されている。

 

 

 

その後、兵火で焼失したが、豊臣秀吉が復興したという。このお寺の「庫裏」つまり台所は、その秀吉の桃山時代に建てられた建物で、現在は国宝となっている。

 

 

 

〝公式テキストブック〟では、妙法院の場合、「庫裏」が「庫裏本来の調菜喫飯の場のみに限定」され、居住などの用途には使われなかったと説明されている。

 

 

 

それにしてもこの「庫裏」の建物は、床面積が500平米あまりあるという巨大な台所である。今日、掲示されていた工事前の写真でも、直径3尺の竃が3つ4つ並んでいた。

 

 

 

Wikipediaでは、秀吉が妙法院のすぐ南の方広寺に大仏殿を建てた際に、自分の祖父母の「千僧供養」を行い、それに関わる千人近い僧侶の食事用に作った、と説明されている。

 

 

 

 

つまり、一度に千人分もの調理を行うため、大きな台所を作ったということだ。しかも、竃の煙を吐き出すため、上部には天井を張らず太い小屋組がむき出しになっているという。

 

 

 

 

さらにこの建物の凄いところは、台所の建物なのに、正面には彫刻で飾られた「唐破風造」の玄関までも作られているなど、〝変化に富んだ作り〟になっていることらしい。

 

 

 

 

 

ということで、この「庫裏」の「令和の大修理」が行われていて、今日と明日は、解体・修理の現場が公開されている。それで見学に出掛けて行った、という次第だった。

 

 

 

それにしても、これほど見学者が多いとは思っても見なかった。とにかく大勢の方が、京都府文化財保護課の名前入りのヘルメットをかぶって、修理現場に入っていた。

 

 

 

 

私は先月、大徳寺の方丈の修理現場の見学に出掛けたが、この時は各回15名限定の案内付きの見学会だった。今日は、行けば誰でも見られるという、自由見学のスタイルだった。

 

それで屋根瓦も剥がされ、建物の骨格だけを残して、後は〝がらん洞〟になっている「庫裏」の中を、工事現場の足場の階段を上り下りしながら見て回った。

 

 

 

ところどころに置かれている説明書きと照らし合わせながら、ここがどんな部分で、どんな作業が行われているのかを、想像力を膨らませながら見て回った。

 

 

 

建築の知識などまったく持ち合わせていないし、ましてや大工仕事などとは縁遠い人生だったけれど、木と木を継ぎ合わせる〝木組み〟の見本なども置かれていて楽しかった。

 

 

 

それにしても、解体・修理といっても凄い規模だし、大勢の宮大工さんをはじめ、屋根瓦や金工など、それこそ伝統工芸の集大成のような作業になっているのだろう。

 

 

 

だから、修理現場の近くでは、こうした大工仕事だけでなく、瓦作りや屋根の檜皮葺き、釘隠しの金工細工などの〝制作体験〟ができるテント張りのコーナーも作られていた。

 

 

 

ここには外国人観光客も、小学生くらいの子どもさんもいて、大勢の人たちが楽しそうに制作体験と取り組んでいた。屋根の檜皮葺き体験では、金槌で檜の薄板を打ち付けていた。

 

 

 

 

 

これを眺めてから、妙法院の主要な建物である宸殿や、本尊の普賢菩薩騎象像が置かれた普賢菩薩堂なども見て回ることができた。

 

 

 

 

また庭の一角には大きな石碑が立っており、説明板によれば、幕末に勤王急進派の三条実美卿らがここに集結し、長州目指して落ちて行った「七卿落ち」の記念碑ということだった。

 

 

 

 

以前も、この妙法院には通り抜け程度に来たことがあったけれど、内部を見ることはできなかった。今日は工事現場だけでなく、お寺見物としても良い機会ということになった。