悟りの窓と迷いの窓と | がいちのぶろぐ

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京都市の市街地から見れば北の端ともいえる「鷹峯」。かつて、「本阿弥光悦」が徳川家康から土地を拝領し、ここに工芸村を開いたことでも知られている。

 

その光悦の住居跡は、現在、紅葉の名所の「光悦寺」として知られている。また鷹峯一帯は、光悦寺だけでなく、島原の花魁・吉野太夫が寄進した山門で有名な「常照寺」もある。

 

 

(光悦寺の紅葉)

 

さらに、光悦寺の斜め向かいになる「源光庵」という曹洞宗の禅寺も、本堂にある「円窓」と「角窓」が、禅で言う〝悟りと迷い〟を示している、として知られている。

 

 

(源光庵の山門)

 

ということで、今日は特に予定もなく、秋の空がとても綺麗だったから、この「源光庵」まで市バスを乗り継いで出掛けていた。

 

鷹峯から北西へ行けば、右京区に編入された旧・京北町を抜け、茅葺の里・美山を通り、福井県小浜市へ至る。この道は、かつて西の鯖街道とも言われ、鷹峯は京への入口でもあった。

 

そんな鷹峯街道は、市バスがやっと通れるくらいの道幅しかない。鷹峯のすぐ手前には、秀吉が築堤し、京を取り巻いていた「御土居」跡が残されている。

 

 

 

つまり、鷹峯は京都の北の端っこで、都への入口の一つということになる。ちなみに、鷹峯から少し北へ行った街道筋の峠の名前は「京見峠」で、まさに名前の通りだったのだろう。

 

 

(鷹峯街道に残る旧家)

 

さて「源光庵」は、以前に来た時には工事中ということで、お寺の中に入って拝観が出来なかった。それで、今日はやっと中に入ることができた次第だった。

 

 

 

さして広くないお寺だけど、大徳寺2世の徹翁義亨が、隠居所として1346年に創建した。その後衰退していたが、1694年に卍山道白が再興した、という謂れがある。

 

 

 

また本堂の天井板は、関ケ原の戦いの前哨戦となった、伏見城包囲戦で立て籠もり、最後は全員が自刃した徳川の忠臣・鳥居元忠らの、血の跡が残る板が供養に天井に使われている。

 

 

 

 

この「血天井」と呼ばれている、伏見城の遺構の板敷きは、東山七条の淀君・お江の方ゆかりの養源院や、西賀茂の正伝寺、宇治の紅葉の名所・興聖寺にも残されている。

 

 

 

養源院の天井板には、血糊で出来た人の足跡まであるが、この源光庵はさすがにそれらしきシミが残されているだけ。歴史の遺物だとしても、やはり見る方はあまりぞっとしない。

 

さて本堂の本尊の前の荘厳の脇に、例の「悟りの円窓」と「迷いの角窓」があった。そう言われても、〝あぁ、これがそうか〟という感じで、それ以上には特に何も。

 

 

 

観光案内的な本では、これこそが禅の真髄を表した、というような言い方で紹介されているけれど、窓の外の庭園の風景もイマイチだし、私には〝何だかなぁ〟という気がしただけ。

 

 

 

 

 

それよりも、鷹峯という地域が京都の北の外れで、かなり山に寄っている場所だけに、そろそろ庭の楓が赤褐色に色付き始めていた。もうあと2週間もすればきれいだろうと思う。

 

 

 

本堂の前に続く参道では、ススキが穂を揺らしていた。こちらの方が何となく人生を感じさせるような気がして、私には例の窓よりむしろ印象深かった。

 

 

 

というような日になったが、今日は10月31日で、世間ではHAPPY HALLOWEENなる日だそうだ。これは、まぁ〝若い衆のバカ騒ぎの日〟の一つということで。

 

 

(ご近所の家の前の飾り付け)

 

それよりも、虎がAREの次の、ASOKOまで達成した日には、道頓堀で溺死体が浮かびませんように。何せ関西ダービーだから、東京のそちら方面は〝盛り下がり〟だと思うが。