昨日は、東山の知恩院のさらに上となる場所にある、我が家の菩提寺まで墓参りに行った際に、知恩院の大釣鐘の「鐘楼」の脇にあった、「殉難忠士之墓」を見た話を書いた。
今日はその続きというか、墓参りを終えた帰り道のことを書いておこうと思う。帰り道は「鐘楼」を抜けて、法然上人が説教をしていたという「慈円山安養寺」の前を通る。
明治時代の初め頃に、明治政府による「廃仏毀釈」とともに、寺社の土地を政府が召し上げるという「上知令」なるものが発布されて、寺社の所有地が一気に狭くなった。
この「慈円山安養寺」も、周辺にあった「六阿弥坊」という、庶民の休息施設だったものが無くなり、安養寺自体も広かった所有地が削られて、そこに市民公園が誕生した。
この市民公園は、安養寺が慈円山から〝慈〟を抜いた「円山(まるやま)」として親しまれていたことから、今も桜の名所として親しまれている「円山公園」の名前の起源となった。
ということはともかくとして、私は坂を下ってその円山公園まで降りてきた。この公園も有名な「植治」小川治兵衛の作庭によるが、近年、復旧工事を終えて綺麗になっている。
ところで、円山公園と言えば「枝垂れ桜」。私が生まれたころ、すなわち戦後すぐに、それまでの桜の木が枯れて、その木の種から育った2代目が、今では大木に成長している。
この2代目枝垂れ桜は、桜守として有名な「植藤」佐野藤右衛門さんが育てたもの。明治期の「植治」、昭和の「植藤」といった、名人の手になった円山公園だが。
この「枝垂れ桜」と向かい合うように「ひょうたん池」がある。その池の畔に、自然石に彫られた石碑が置かれている。私は今まで、この池にそれこそ数えきれないほど来ている。
ただ、この石碑は私にとっては、〝有るような、無いような〟存在だった。つまり、〝何かあるな〟というくらいの感覚で、それが何かを確かめたこともなかった。
昨日は改めて、それが何かを確かめることにした。いや、実はそれが何なのか〝あること〟で知ったので、そのことを確かめようと思い立った。
この自然石に文字が彫られた石碑は、「祇園小唄の碑」だったのだ。「祇園小唄」などと言っても、ロック世代の若い人には興味が無い話だと思う。
この歌は、当時の流行作家だった長田幹彦の作詞で、佐々紅華が作曲し、東京・葭町の〝芸者〟藤本二三吉さんの歌で、昭和5年に発売されて大ヒットした〝流行歌〟である。
そもそもは、長田幹彦の小説を原作とした映画「絵日傘」の主題歌だった。今なら、さしずめ大ヒット・ドラマのオープニングタイトル曲、という位置付けになろうか。
タイトルの「祇園小唄」からわかるように、長田幹彦が馴染みの京都・祇園のお茶屋「吉うた」に滞在していた時に書き上げた、ということだ。
歌詞は、京都の四季の移ろいと祇園の舞妓の姿がオーバーラップされている。だからこの歌詞に、人間国宝だった4世・井上八千代師が振り付けをした。(歌詞、丸パクリです)
♪月はおぼろに東山 霞む夜毎のかがり火に 夢もいざよう紅ざくら
しのぶ思いを振袖に 祇園恋しやだらりの帯よ
♪夏は河原の夕涼み 白い襟あしぼんぼりに かくす涙の口紅も
燃えて身を焼く大文字 祇園恋しや だらりの帯よ
♪鴨の河原の水やせて 咽ぶ瀬音に鐘の声 枯れた柳に秋風が
泣くよ今宵も夜もすがら 祇園恋しや だらりの帯よ
♪雪はしとしとまる窓に つもる逢瀬のさしむかひ 灯影つめたく小夜ふけて
もやひ枕に川千鳥 祇園恋しやだらりの帯よ
その結果、京都の舞妓がお座敷で必ず舞う定番の曲になった。つまりは、大ヒットして全国に知られる歌であり、京都を代表する舞であり、ということになった。
それで、長田幹彦が作詞をした場所である、祇園のお茶屋「吉うた」の二代目女将が奔走して、昭和36年に歌詞の石碑と、銅版の佐々紅華の譜面が設置されたということだ。
私自身、そんなこととは露知らず長年過ごしてきたのだが、さっきも書いたように〝あること〟でそれが何なのかを知った。だから、昨日はわざわざ確かめに行った次第だった。
その〝あること〟とは、京都・観光文化検定。つまり、「祇園小唄の歌詞の碑はどこに設置されているか」とか、「祇園小唄を作詞したのは誰か」といった問題が出る可能性が高い。
ならば、その実物を見ておくに越したことはない、ということで、昨日、円山公園のひょうたん池の脇にあるこの碑を見物に行った、という次第だった。
その後は、八坂神社にお参りをしてから帰路についたが、八坂神社も観光客が随分と戻って来ていた。さらに、八坂神社の西楼門の向かいにある、「ツルハドラッグ」も再開していた。