「慶応戊辰仲秋」の銘の入った石碑を見て | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

今日の午前中は、お彼岸の墓参りに。「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言ったもので、一昨日の夕方に低気圧が通り抜けた後は、一気に空気が入れ替わったみたいだ。

 

一昨日も昨日も、夜は掛け布団を蹴散らすこともなく寝ていた。明らかに朝夕の気温が低下した。今日の昼間も、気温こそ30℃を超えていただろうけど、空気が軽く感じられた。

 

だから今日、我が家のお墓がある、知恩院の上になる菩提寺まで出掛けたが、歩いているときはさすがに暑いけれど、それでも汗の乾いていく速度が早いという気がした。

 

ところでお寺は、知恩院の除夜の鐘で有名な〝大釣鐘〟のある、「鐘楼」のすぐそばにあるのだけれど、今日は、なぜかその「鐘楼」の一隅に建っている石碑を何気なく見た。

 

 

 

今まで、私の年齢から考えても、この「鐘楼」には3ケタの回数は来ていると思う。そして、この石碑も目にはしていたけれど、気に留めて裏側まで読んだことはなかった。

 

表には「殉難忠士之墓」と書かれている。石碑ではなく建前としては墓石だった。では〝いったい誰の墓なの?〟となる。それで、今日、初めて裏の由緒書きを読んでみた。

 

 

 

多分、その大意はこんなことだと思う。「このところ、天皇や諸藩の命令でもって殺傷する者が多く、殉難者が数多く出ていることは大変残念なことだ」ということが書かれている。

 

 

 

そこで「このことを悲しんで、ここに墓を立てて忠魂を慰めたい。 慶応戊辰仲秋」と記して、「大僧正学天」というお坊さんが書いている。多分、その辺りの内容だと思う。

 

「慶応戊辰」って、ひょっとすると。ハイ、そうでした。「慶応戊辰」とは「慶応4(1868)年」で、あの「戊辰戦争」で幕府軍と薩長を主体にした新政府軍が闘った年です。

 

さてここで、旧暦と言われる太陰暦(天保暦)と、現在私たちが使っている太陽暦とのズレが起こる。

 

Wikipediaの解説では、「慶応4年9月8日より明治に改元」されたということなんだが、この「9月8日は西暦で1868年10月23日」となるそうだ。

 

しかも、「明治に改元」されるのは、「慶応4年1月1日/明治元年1月1日(新暦1月25日)に遡って適用」されるのだそうだ。

 

だけど、碑文にある「慶応戊辰仲秋」は、多分1868年の〝中秋の名月〟の頃だろう。そうすると「旧暦8月15日が仲秋の名月」だ。

 

そう考えるなら、この墓というか石碑が建てられたのは、旧暦9月8日に明治に改元されたとすれば、その3週間ほど前のことになる。

 

そもそも「慶応3年12月9日(1868年1月3日)、明治天皇は王政復古の大号令」を発しているが、幕府側も決して〝ハイ、そうですか〟と受け入れたわけではない。

 

だから「戊辰戦争」とも言われる、幕府軍と薩長を主体にした新政府軍の内戦が、「鳥羽伏見の戦い」で幕を開けたのだ。そういう時代背景の下に、この墓石が建てられていた。

 

 

何と凄いことだろう。何度となく見てきた(目に留めてきただけ)の石碑が、こんな時代背景を持って、こんなところでひっそりと佇んでいたとは。

 

しかも毎年、大晦日の深夜、この大釣鐘の周りには、徹夜で初詣に出掛けた人がぎっしり詰めかけて、若いお坊さんたちが15人がかりで除夜の鐘を撞くのを見ている。

 

 

 

そのホンの5m横に、こうして日本の〝大転換の歴史〟が息づいていたのだと思うと、その取り合わせというか、歴史の面白さに、なんとも言えないものを感じてしまう。

 

碑文に書かれていた多くの殉難者の中には、きっと坂本龍馬や中岡慎太郎も含まれていることだろう。そんなことが、さらっと書かれているなんて。

 

今日は墓参の帰り道に円山公園から八坂神社を抜けて帰ったのだが、その話はまた明日にでも書こうと思う。そちらでも、この歳になって初めて見つけたものがあったから。