「末は博士か、大臣か」ってか? | がいちのぶろぐ

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岸田総理が行った、女性議員5人を登用した内閣改造は、その後に続いた政務三役(副大臣・大臣政務官)では女性がゼロだったなど、選出を巡っていろいろと論議を呼んでいる。

 

だが、そもそも〝なぜ内閣改造が必要なのか〟という根本的な話は、どのメディアも語っていない。毎年のように大臣を取り替えていれば、誰が何の大臣かなど誰も覚えていない。

 

それでも、とにかく地元選出議員が大臣に登用され、「おらが先生が大臣になった」と喜んでもらえるなどというのは、いったいどんな時代の話なのだろう。

 

こうした「末は博士か、大臣か」という100年以上前の感覚が、政界では今もまかり通っているのだろうか。もしそうだとするなら、どれほど〝時代遅れ〟の感覚なのだろうか。

 

現在のように、複雑で高度化した社会を前にすれば、大臣という職務は、それを任される議員の能力と専門性に従って、まさに適材適所の人材が選ばれるべきだろう。

 

そしてよほどの失態がない限り、各大臣は総理と一体化して、ということは、すなわち総理が続投している間は各大臣もその任を解かれることがない、というのが本筋だろう。

 

現状のように当選回数の順送りで、『待機一掃』などといわれるような大臣任命では、どこをどう考えてみても、〝適材適所の人材を充てる〟などということは不可能だと思う。

 

なぜ内閣改造を行って、前任の大臣を入れ替える必要があったのか。それこそ総理大臣の『任命責任』として、一人ずつの入れ替え理由を国民に向かって明確に説明すべきだろう。

 

いや〝内閣改造〟という言い方そのものが、良くないのかもしれない。今回行われた『大臣の首のすげ替え』でも、誰がなぜ前任者よりも適格性が高かったのか、誰にもわからない。

 

そもそも、「重要ポストは留任させたから、内閣の骨格は変わらない」などという新聞の論調を見ることがある。では「重要ではないポスト」に、これほど多くの大臣が必要なのか。

 

「骨格が変わらない」のなら、変更された大臣は、前任者も新任者も単なる「尾ひれ」でしかないのか。そんな大臣であっても、なお「就任おめでとう」ということなのか。

 

こんな茶番劇にはうんざりする。優秀な官僚=スタッフが付いているから、国会議員の誰が大臣になっても、何の滞りもなく行政が動いて行くのなら、もう大臣など要らない。

 

むしろ、そんな税金の無駄遣いは止めた方が良い。もっと言えば、副大臣や政務官などは何の必然性があるのか。今の状態なら、優秀な事務方だけで十分ではないか。

 

政務三役の役割は、政治が官僚をコントロールする、という大義名分に拠っているのだろう。だが日常業務は官僚の仕事だし、本気で現実をコントロールなどできるのだろうか。

 

挙句の果てに、今度選任された副大臣・政務官の半分は、もろに〝壺ってる〟人間だと言うではないか。その点について、総理はどのように任命責任を果たすつもりだろう。

 

なんだか、バカみたいな話だと思う。結局は官邸スタッフなどと言われている、官房副長官を頂点に総理補佐官や秘書官などほんの少数が、この国の枠組みを決めて行くのだろう。

 

さらに細部も、各省の優秀な官僚が練り上げることになる。何てことだろう、これでは大臣とは何をする人なのか。で、たまに大臣が張り切ると、マイナ・カード騒動になってしまう。

 

国民の幸せなど、きっとまともには考えていないトップの少数がいて、我々はその下で従順に暮らすのなら、藩ごとに統治していた江戸時代よりも、悪くなっているのかもしれない。