お盆だからお墓参りに | がいちのぶろぐ

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今日は、お盆のお墓参りにお寺さんへ。この間、我が家の墓を本家筋から分離・独立させる手続きをお願いしているので、お寺さんがまだ手空きの間にお伺いしようということで。

 

それで、今日は本家筋が持っていた第2の墓地の方を、我が家の名義に書き換えてもらうことにして、そのための手数料を持参した。

 

そもそもこの第2の墓地というのは、まさに3尺角の一番狭い規格の墓地で、明治のころに縁者が入っておられたらしい、という無縁墓に近いものだった。

 

 

 

それを本家筋が最近〝墓仕舞い〟をして、その場所を我が家が引き継ぐことになった、という次第だ。最近は墓仕舞いをして、合葬やマンション墓などに変える家も多いそうだが。

 

我が家の檀那寺も、明治期から昭和初期くらいのお墓で、今ではもう無縁墓になってしまって、その跡の墓地に入り手がなく、虫食い状態の空き地が目立ち始めている。

 

墓を引き継ぐ子どもが無かったり、親戚なども遠くに住んでいたりして、結局は徐々に無縁墓になってしまう。これからは、こうしたことが増えて来るのだろう。

 

 

 

我が家でも、新たに墓を建てることに関しては、大阪の息子の了解を求めた。何と言ってもこの先10年もすれば、彼の肩に維持管理費用が掛かって来るのだから。

 

彼が拒否でもしようものなら、私の魂は無縁となってどこかに漂ってしまう。『漂泊の魂』なんて、文学的には美しい表現だけど、現実問題としてはなかなかに切ないものがある。

 

ということで、先日は墓石屋さんに発注をして、最小区画である3尺角の土地に見合った、小さな墓石をお願いしてある。文字も、シンプル・イズ・ベストで依頼をした。

 

ところで、今日、墓地を歩いているときに、日ごろは気にも留めなかったのだが、ユニークな墓石を見つけてしまった。ご本人は、どうも祇園のお茶屋のご主人だったみたいだが。

 

 

 

本人さんの姿が線刻されていて、どなたかの俳句がその上に刻まれている〝お洒落〟な墓石だ。やはり死後もこうであってほしいものだ、などと思っても、自分ではどうだろう。

 

きっと〝小っ恥ずかしく〟て、尻がムズムズしてくると思う。生前に自分で墓を拵えたからできることだと思うが、今の時代にはきっとそぐわないだろうと思う。

 

そんなことで、今日は本家のお墓にお参りをした後は、いつもと帰るコースを変更して、知恩院の釣鐘堂から、知恩院の御影堂の方へと下って行った。

 

 

 

こんな場所にも、外国人観光客が大勢やって来て、釣鐘堂を目指して石段を上って行った。納骨堂の前の池は、ちょうど蓮が花開いていて、薄いピンクの花びらがきれいだった。

 

 

 

 

知恩院の山門の下まで降りてから、知恩院の南門を通って円山公園側へ入れば、そこには京都名物「いも棒」の平野家本店がある。棒鱈と海老芋を煮込んだ名物が「いも棒」。

 

 

 

 

創業300年を謳う名物料理だが、私はホントに小さな子どものころに、親に連れられて一、二度行った記憶があるくらい。少なくとも、この半世紀は行ってはいないけれど。

 

 

 

八坂神社の裏手を下って、東大路通の祇園石段下にまで来ると、やはり外国人観光客と、お盆休みの国内のお客で賑わっていた。

 

最近できた〝土鍋炊きのお米が美味しい〟と評判らしい、〝新出来〟なのに○代目××と名乗る、〝京都では〟恥ずかしくてあまり見かけない風のお店は、今日も大行列だった。

 

 

 

別に美味しければ、店名などそれでも良いのだけれど、なぜ敢えて○代目などと老舗っぽく名乗るのかが、私には理解できないだけだ。でも、他人様のことだからどうでもいい。

 

そんなお盆の一日になった。明日は、お盆のお精霊さんのお迎えに、どこかのお寺へお参りに行こうかしら。だったら、今日は何だったの、ということではあるのだが。