祇園祭の後祭りは花傘行列を見物 | がいちのぶろぐ

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今日は祇園祭が「後祭り」の日。午前中には、後祭りの11基の山鉾の巡行もあれば、花傘行列の巡行もあった。

 

夕方からは、17日からの「神幸祭」で四条寺町の御旅所に渡っていた、3基の神輿に載った神様も1週間が経って、今夜は八坂神社へ戻られる「還幸祭」も行われる。

 

さて私は午前10時前に家を出て、市バスは祭り仕様で全く読めないので、京阪電車で「祇園四条」駅まで行き花傘巡行を見ることにした。

 

この花傘巡行は、昭和41(1967)年に前祭りと後祭りの山鉾巡行が合併して、17日にすべての山鉾が動くことになったので、後祭りの代わりとして催されるようになった。

 

花傘巡行は、「花傘・子供御輿・獅子舞・鷺舞・児武者・祇園囃子・祇園田楽・馬長稚児(うまおさちご)・花街の屋台など」が、四条烏丸あたりから八坂神社まで巡行する。

 

そして、到着地の八坂神社の境内では、〝花街の屋台〟で巡行してきた花街の舞妓さんたちが、それぞれの花街ごとの舞を奉納することになっている。

 

これは八坂神社の氏子地域にある4花街の、先斗町が歌舞伎踊り、祇園東が小町踊り、祇園甲部が雀踊り、宮川町がコンチキ音頭をそれぞれ奉納する。

 

私が京阪「祇園四条」駅に着いて、地上に上がった時には、早くも花傘巡行の一番前の部分は通り過ぎてしまっていた。だから、子供御輿や獅子舞、馬長稚児は見損ねてしまった。

 

私の目の前には、「鷺舞」の装束を付けた子どもたちが、日差しを避けて、自分たちの行列に入るために待機をしていた。

 

 

 

その後すぐ「久世六斎保存会」の屋台が、六斎念仏太鼓を演じながら通って行った。その後には「織商」と言われる、室町筋の繊維業団体「繊維卸商業組合」の屋台が続く。

 

 

 

 

その「織商」の屋台の上には、〝ミス着物〟のお嬢さんたちが、にこやかに手を振りながら乗っていた。

 

 

 

 

そこから続いては、京都五花街の内で八坂神社の氏子地域の4つの花街の屋台が続いた。まずは祇園東の屋台に、「小町踊り」の扮装をした舞妓さんたち。

 

 

 

続いて、先斗町の「歌舞伎踊り」の舞妓さんを載せた屋台。その後ろには、祇園甲部の「雀踊り」の衣装に〝鳥追い笠〟姿の舞妓さん。

 

 

 

 

番目は宮川町の「コンチキ音頭」の舞妓さんだったが、私にはこの「コンチキ音頭」が何のことだかさっぱりわからない。多分、祇園囃子のコンコンチキチンだと思うが。

 

説明を探してみたら、「コンチキ音頭は京都の風俗・名所・名物などを織り込んだ京情緒豊かな音頭」で、「1964(昭和39)年に京都市文化団体懇話会が制定」したという。

 

そんなものは〝知らんッ!〟としか言いようがない。先斗町の「歌舞伎踊り」や祇園甲部の「雀踊り」などは、衣装を見ても何となく想像がつく。

 

 

 

それに引き換え「コンチキ音頭」とは一体何なのか?しかも白塗りの顔は良いとして、衣装にも特徴がないし、何より、私は写真さえも上手く撮れなかった。

 

 

 

私は、ちょうど南座の真ん前くらいの場所で見物していたが、先ほどまで私のそばでスタンバイしていた、「鷺舞」の子どもたちが、ここで行列を組んで通っていった。

 

 

 

残念ながら、「鷺舞」は踊らないみたいだ。この「鷺舞」は、京都の祇園祭では一度は途絶えてしまったけど、島根県の津和野町に残されていて、それが京都へ逆輸入された。

 

 

 

最後は、雅楽の演奏の隊列が通って、花傘巡行は割とあっさりと終わってしまった。

 

今日も見物の群集には、大勢の外国人旅行者の姿があった。きっと、長い夏休みが取れる欧米の旅行者だろう。私は、もう年中有休だから良いのだけれど。