御旅所のお神輿 | がいちのぶろぐ

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今日はちょっとした買い物があって、午前中に繁華街の新京極まで出掛けていた。

 

だから「四条河原町」まで市バスに乗っていったが、新京極通りの四条通側の入口に当たるところが、ちょうど八坂神社の「御旅所」の真向かいになっている、という位置関係。

 

だから、四条通を渡る信号待ちの間に、17日の神幸祭でこの御旅所にわたって来られた、3基のお神輿にご挨拶をしておいた。

 

 

 

真ん中には、「六角形の屋根」に鳳凰が乗った「中御座」。ご神体は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」であり、神仏分離以前であれば「牛頭天王」ということになる。

 

 

 

向かって右側には、「四角形の屋根」の「東御座」。ご神体は素戔嗚尊の奥さまの「櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)」であり、牛頭天王の夫人の「頗梨采女(ぱりさいにょ)」。

 

 

 

向かって左側には、「八角形の屋根」に鳳凰が乗った「西御座」。ご神体は「八柱の御子神(やはしらのみこがみ)」であり、「八王子」ということになる。

 

 

 

八坂神社が「祇園社」であった当時(神と仏が仲良くしていた時代)は、インド系バリバリで祇園精舎の守り神の牛頭天王の家族がご神体だったが、神仏分離で読み替えが起こった。

 

そもそも、牛頭天王というのは怖い疫神であり、それが一夜の宿を乞うた時に、貧しい「蘇民将来」が手厚くもてなした。それで、牛頭天王が蘇民将来の子々孫々を守ると言った。

 

このことから、祇園祭の山鉾の授与品である「粽(ちまき)」には、「蘇民将来子孫也」と書かれたお札が着けられている。つまり疫病神を追い払ってくれる、ということになる。

 

 

(船鉾で授与品を授ける売り子役の子どもたち)

 

インドの祇園精舎の辺りは、「キュウリ」の原産地とされている。キュウリは「胡瓜」とも書くように、胡=エビスであり、中国の西方一帯を指している。

 

つまりは仏教が、インド北東部から東へ進んで中国に渡り、さらに東進して朝鮮半島から日本にやって来る。その時に、牛頭天王もお釈迦さまなどと一緒に、この国にやって来た。

 

だからなのか、八坂神社=祇園社の「神紋」は「五瓜に唐花」と「三つ巴」。「五瓜」はキュウリにそっくりだし、〝唐〟花がくっ付いている。由来を示しているようなものかも。

 

 

(同上)

 

「三つ巴」の紋は、弓を射る時に使う鞆を図案化したものと言われており、「八幡神=弓矢の神様」のシンボル。その八幡さま自体が、神と仏が合体したような存在でもある。

 

それが突然に、神と仏を分けろとか、神社は神様の領域だから仏は出ていけなどと、わけのわからないことを言って追い出した結果が、今日の保守派の始まりということも言える。

 

保守派などと言っているけれど、ちっとも〝保守〟的ではなく、たった150年ほど前に無理矢理始めたことを、〝この国の古来の形〟などと言っているだけ。

 

 

(月鉾の巫女姿で授与品を授ける女性)

 

そう考えれば、庶民にとっては〝大事なのはお祭りなので、そんな神仏論争はどっちでも良いからさ〟ということになってしまう。

 

面白いのは、八坂神社の神紋が「五瓜に唐花」と「三つ巴」の二つ紋になっていること。もちろん「五瓜に唐花」は「牛頭天王」のシンボルだと言えるだろう。

 

 

 

一方で「三つ巴」は、八幡神の「弓矢八幡大菩薩」のシンボルと考えるか、もう一つの考え方である「勾玉」を図案化したものと考えるか、ということだと思う。

 

「勾玉」であれば、神社に最も多いシンボルとして知られているらしい。だから、牛頭天王だけではまずいから、〝こっちもいるよね~〟となったのだろうか、知らんけど。

 

いろんなことを考えてしまう。どっちでも良いことだけど。