「弓矢町武具飾」の「弓箭閣」へ | がいちのぶろぐ

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今日16日は、祇園祭の宵山を迎える。ある意味、この宵山が人出としてはピークになるだろう。むしろ明日の山鉾巡行よりも、宵山見物の方が人気があるように思う。

 

 

(宵山の駒提灯/鶏鉾)

 

 

それはそうかもしれない。最近の山鉾巡行は、晴れていれば気温が35℃以上になることが多い。いわゆる猛暑日だ。だから京都市民などは、見物に出掛けるのをパスする。

 

 

(昨年の巡行/長刀鉾)

 

また、今年のように曜日の巡り合わせが良い年は滅多にないから、昼間の山鉾巡行は仕事で見物できないことも普通に起こる。だから、家族連れで〝宵山に行こう〟となる。

 

そのくせ、本来の神事としての祇園祭(変な言い方だが)である「神輿渡御=神幸祭」は、17日の夜だが、京都市民でもこちらにはあまり興味を示さない。

 

〝なぜか〟と問われると説明に困るが、お神輿が練り歩くのはどこのお祭りでも、「ありがちな光景」だから、と言うしかない。それは、珍しいことではないから。

 

京都市内にも数多くのお祭りがあり、伏見稲荷大社や松尾大社の春の祭りでは、祇園祭を上回るほどの規模の〝神輿渡御〟がある。松尾大社のお祭りは、〝船渡御〟すらある。

 

 

(今年の上御霊神社の還幸祭での神輿渡御)

 

だから、見ようと思えば、お神輿は他のお祭りでも見ることができる。ひょっとすると、ご自分がどこかの氏子地域に住んでいて、〝神輿渡御〟と関わっているかもしれない。

 

その点から言えば祇園祭の山鉾巡行も、秋の亀岡祭りや隣り町の大津祭りなどにも山鉾の巡行はある。だからこちらも、珍しさで言えば、そこまで飛びぬけているわけでもない。

 

ただ祇園祭の山鉾巡行は、規模において圧倒的にスケール感が違う。また「胴掛け」というか、山鉾の周囲を飾り立てている懸想の品々も価値が高い。

 

 

(祇園祭「鯉山」の胴掛けのベルギー産タペストリー)

 

そんなこともあって、神事としての神輿渡御よりも、「風流(ふりゅう)」として民間行事である山鉾巡行の方が、目立っているということだろう。

 

ところで、最近は微に入り細にわたって情報が発信されるせいで、山鉾巡行でもなく、神輿渡御でもない、祇園祭の〝サードパーティー〟までがけっこう知れ渡って来た。

 

 

 

それが「弓矢町武具飾」である。元は「祇園感神院」すなわち〝祇園社〟の祭礼の本番である「神輿渡御」に際して、その「先触れと道中警護と浄め」を受け持つ人たちがいた。

 

祇園社の下級神人である、「犬神人(いぬじにん)」と言われた人たちである。彼らはまた、弓の弦をビュンビュンと鳴らして悪霊を追い払う「弦召(つるめそ)」とも呼ばれた。

 

古来よりどんな祭礼にも、このような「浄め」を受け持つ集団が存在していた。それを引き受けていた祇園社の集団も、「宮本組二番組」「神宝組」などと呼ばれてきた。

 

この人々が集住していた地域が、建仁寺の南側に当たる松原通の鴨川東地域。そしてこの集団は、弓矢・鎧兜といった武具の製作にも当たっていた。だから、ここは弓矢町と呼ばれた。

 

 

(鴨川の松原橋から東を見た「松原通」)

 

(疏水に架かる「松原橋」の親柱)

 

彼らは祇園祭に際しては、自ら甲冑を着込み「武者行列」を組んで、神輿を先導し、道中を警護し、浄めを行って来た、という歴史がある。

 

 

 

これも昭和の後半には、それまで使われていた鎧兜の傷みや、諸々の事情から、武者行列が取り止めになってしまった。そして、現在は「武具飾り」という形で残っている。

 

この「武具飾り」は祇園祭の一定期間に限って、弓矢町の町内で、かつて着込んでいた鎧兜や、太刀の飾り付けを、訪れる人に見てもらう形で行われてきた。

 

これが、山鉾巡行でもなく神輿渡御でもない、祇園祭の〝サードパーティー〟として、近年は情報発信されるようになり、それなりに人を集める行事になっている。

 

ということで、今日の午前中は「清水道」バス停まで行って、そこから清水寺に背を向けて松原通を西に向かい、坂を下って六波羅蜜寺の近くにある「弓箭閣」まで出掛けた。

 

 

 

「弓箭閣(きゅうせんかく)」と言えば厳めしいが、ちょっと分かり難い路地奥に位置する普通の民家で、普段は町会所として使われている町家である。

 

 

 

現在は奥嵯峨に引っ越した「愛宕(おたぎ)念仏寺」が、かつては六波羅蜜寺の北側の松原通に面して存在していた。その跡地の一角にあるのが「弓箭閣」なのだが。

 

 

(幟に隠れるように「愛宕念仏寺跡」の石碑が)

 

だから、路地の入口には「愛宕小路」という標識も上げられている。今でこそ松原通に幟なども掲げて、〝こちらです〟と示してくれているが、普通なら絶対に分からない場所。

 

 

 

 

この町家の1,2階に、由緒正しそうな鎧兜が6領と、太刀や写真・資料などが展示されている。さらに町内の色々なお家の前にも1領、2領と鎧兜が飾られている。

 

 

 

 

現在は全部で14領残っているそうだが、かつては30領ほどもあったということだった。今日はこの「弓箭閣」の2階で、説明をされていた町内会の方と長話になってしまった。

 

 

 

 

私と同世代の方で、あれこれと話が合うものだから、こちらも調子に乗ってしまった。それにしても、国宝の「洛中洛外図屏風」にも、祇園祭を先導する武者行列が描かれている。

 

 

 

その屏風の一部が拡大して展示されていたので、それを見ながら「犬神人」だの「弦召」だのという話になり、祇園祭の山鉾の巡行が、昔はこうだったという話になって行った。

 

 

 

 

こんなことで、今日は「弓矢町武具飾」を見に行った。帰りは松原通をさらに坂を下り、疏水や鴨川を渡って高瀬川を越え、「河原町松原」からバスに乗って帰って来た。