今年は「新選組結成160年」ということで、「京の夏の旅」は「新撰組」と縁が深い「壬生寺とその周辺」、それと「新撰組」が通っていた遊郭「島原」が取り上げられている。
ということなので、「壬生寺とその周辺」もいずれ近いうちに訪れるにしても、今日は3年振りに「島原」へと出掛けていた。
3年余り前、同志社大学大学院の〝ソーシャルイノベーション研究〟のオープン講座で、「半径3kmの旅」というテーマでこの「島原」地区と取り組んだ。
その時は、突然に降って湧いたコロナ禍で、観光客の足がパタッと途絶えたから、観光振興を考えようとしていた「島原」地区で、どんな対応ができるかを考えてみた。
この「島原」は公許の遊郭として、江戸の吉原、大坂の新町と並ぶ歴史を持っているのだが、それも現代の社会では、〝ジェンダー的にどうなのか〟というところもある。
しかし、吉原や新町と比べれば、まだ少数ながら〝太夫さん〟も存在し、数軒だけとはいえ、往時の面影を残す建物も文化財として命脈を保っている。
(島原大門/遊郭と外部を分ける入口)
こんなことを背景として、星野グループの星野佳路代表が唱えておられた「マイクロツーリズム」をキーワードに、「島原」地区のことを考えてみたのだった。
その結果、「半径3km」という可視的な範囲で、自らが町を歩いて深掘りし、そこにいる人・出会う人を通して、〝町を見つめ直す旅〟を提案してみたのだった。
(3年前に作成した資料)
それは「ブラタモリ」的な、良質の〝知識を持った人〟による案内の旅ではなく、自分の足で探り当てる町の楽しみ方、という形での「マイクロツーリズム」の実践だった。
(今日も「島原大門」のそばの「あられ屋」の店先で見つけた光景)
その旅の方法が、結果として「古い歴史が彩る島原」の再発見と、その島原地域で新しい町おこしと取り組む人たちの動きを、〝両にらみ〟できるテーマだと考えたから。
(輪違屋の外観)
こんなことを思い返しながら、今日の午前中は「古い歴史が彩る島原」で、今もなお唯一「お茶屋営業」を続けている「輪違屋」の特別公開を見物に行った。
3年前に「島原」を考えていた時には、現地へ行っても「輪違屋」だけは現状で営業を行っているからと、拝観謝絶を貫いていたので内部を見ることはできなかった。
ところが今回の「京の夏の旅」で5年振りの公開というのだから、見ておかない手はないという気持ちだった。
それにしても、「輪違屋」の建物の中は思ったほど広くなかった。玄関の板間には、「養花楼」という額が掲げられていた。明治の前までは、この名前だったという。
ならば新撰組が通っていた頃は、「養花楼へ出掛けよう」などと言い合いながら、酒と女性を求めて、壬生寺周辺から1.5kmの道のりを通って来たのだ。
その1階の「主の間」という広間の座敷には、近藤勇の書が屏風に仕立てられて残されていた。最後に「浪士 近藤勇」と書かれていたが、全体はなかなかの文字だった。
また2階にはお座敷として「傘の間」と「紅葉の間」、それに「太夫の間」という控えの小部屋があった。これらは残念ながら撮影禁止。〝なんでやねん〟という気持ちがしたが。
まあ2階は廊下も狭く、すぐ目の前にある階段も〝急〟なので、観光客が大勢がやって来て、撮影に気を取られていたら、思わず転げ落ちてしまうかもしれないから。
それにしても「傘の間」の襖には、本物の〝道中傘〟の紙が貼られていて、これがやはりこのお店のシンボルということだと思う。
そんなことで、今日は久しぶりの「島原」行きということになった。ただし、私の結論として「輪違屋」の造作は、何となく思っていたのとは違うような気がしたのだが。