繊細な若者には「お膳立て」が必要なんだって | がいちのぶろぐ

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二日続きでダイヤモンド・オンライン誌の記事の話題になるが、「現代若者論」の研究をされている原田曜平氏が書かれた記事が目に止まった。

 

「『店員がタメ口のカフェ』がZ世代にウケた意外な理由、繊細な本音が見え隠れ」と題する記事だった。

 

記事ではまず、「初対面なのに店員がフレンドリーすぎる」というコンセプトのカフェが紹介されていた。

 

「エンターテインメント業界で活躍する同世代に、しゃくし定規ではない接客をしてもらえる」というのが売り物の店らしい。

 

「断られて傷つくリスクが伴う」から、「気軽に友人を誘うことに抵抗がある」といった場合でも、〝こんな面白い店があるから行こう〟という、「友達を誘う口実」になるらしい。

 

つまりは、若者たちの「人間関係における繊細な心理が、お店の流行に一役買っていた」ということだと、原田氏は述べている。

 

「これほどまでに『傷つきたくない』と考える理由」を、原田氏は「日頃の行動からLINEのやりとりに至るまで(中略)人に見られており、SNSのネタにされる危険性」だと言う。

 

そこで「友人が誘いに乗りやすい状況を『お膳立て』してくれるカフェ」が受けている、ということなんだけど、〝何だかなあ〟という気がしないでもない。

 

原田氏によれば、この「お膳立て」こそが、「若者向けのビジネスにおいて重要なポイント」ということなのだが、〝そんなものなの?〟と思ってしまう。

 

また別の飲食店の事例として、「スマホ断食サワー」という「特殊なグラス」でお酒を提供する店の話も書かれていた。

 

この店で使うグラスは「底の一部が欠けて」いて、「そのまま机に置くと倒れてしまう」そうだ。ところが、「すき間にスマートフォンを」差し込むと、「グラスはうまく自立」する。

 

要するに、「食事中の会話を楽しみたいのに、友人がスマホばかり見ている」から、こんなグラスを使って、無理やりスマホを使わせないらしいのだ。バッカじゃなかろか。

 

「スマホを置いて話せる状況を『お膳立て』している」から、こんな店が話題になっているという。それなら、人を誘わず〝一人飲み〟にすれば良いと思ってしまうのだが。

 

こうしたことは、〝実店舗〟だけではなく、スマホアプリの中でも起きていることらしい。偶然に近くにいる友人をスマホで見つけて、一緒に飲もうとか、遊ぼうと誘うというのだ。

 

原田氏によれば、こうした「『お膳立て』するアプリは、セレンディピティー(偶然がもたらす幸運)を計画的に演出」しているという説明だった。

 

なので、「『計画的セレンディピティー』をいかに生み出せるかがカギ」だという結論になるのだけれど、そんな状況になってまで、なぜ人と一緒にいたいと思うのだろうか。

 

そうまでして気を使いながら友だちといるくらいなら、一人でいた方がよっぽど気楽だと、私などはつい思ってしまう。

 

原田氏自身も、自分の若いころは「日頃の行動」から何から、「ほぼ全てが人に見られており、SNSのネタにされる危険性」がある時代ではなかったと言っている。

 

原田氏よりさらに世代が上の、私の時代であれば他人と連絡を取ること自体が〝難儀な作業〟だった。下宿には電話などない、部屋にはテレビもない、という時代だったから。

 

友だちに会いたければ、〝そいつ〟の家なり下宿まで行くしかない。いや実家ならまだ電話があったが、もし女友達の家であれば、電話に誰が出るかという〝恐怖心〟もあった。

 

そんな時代だったから、他人から監視などされたくても、必然的に〝監視される方法〟すら無かった。仮に監視されたとしても、〝だから何?〟という気分ではあったけれど。

 

原田氏が言われる「人間関係における繊細な心理」など、残念ながらカケラほども持ち合わせていなかった。実に〝野蛮〟な時代だったし、ある意味無神経な付き合い方だった。

 

それでも、特に何も不自由を感じなかった。いつ頃から、なぜそんなに〝繊細〟というか、傷つきやすいというか、悪く言えば〝打たれ弱い〟メンタルになったのだろう。

 

私の孫たちも、これからそうした生き方の中に入って行くのかしら。君たち大変だねぇ。