有線七宝の工芸家・並河靖之 | がいちのぶろぐ

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「帝室技芸員は、戦前の日本で宮内省によって運営されていた、美術家や工芸家の顕彰制度である」と、Wikipediaには説明されている。

 

だから、「優秀な美術家・工芸家に、帝室からの栄誉を与えてこれを保護し、更に斯界の奨励、発展を図ろうとした」ということだ。それで、戦後に制度が廃止されている。

 

「『技芸員』の名称通り任命された作家の分野は多岐にわたり、日本画家や西洋画家、彫刻家の他、金工、陶工、漆工、刀工といった諸工芸作家に加えて、写真家なども任命」された。

 

 

 

この「帝室技芸員」の一人に「並河靖之」がいる。「明治期の日本を代表する七宝家の一人で、京都を中心に活躍」していた。つまり〝七宝工芸〟の代表的作家だった。

 

 

(リーフレットより)

 

「明治政府は貴重な外貨獲得手段の一環」として、「日本の伝統工芸品の欧米への輸出を奨励」していた。

 

だから、並河靖之も「この流れに乗り、明治8(1875)年の京都博覧会に作品を出品して銅賞を受賞」し、その後も「西洋の博覧会に積極的に出品するように」なった。

 

「明治9(1876)年のフィラデルフィア万博で銅賞牌、翌年の第1回内国勧業博覧会で鳳紋賞牌、翌々年の1878年のパリ万博で銀賞を受賞」している。

 

 

 

「並河七宝の特徴」は、「有線七宝技法」にある。「有線七宝とは、図柄の輪郭線に沿って細い金属線をかたどり、その中に釉薬を挿し焼成するやり方」である。

 

この「金属線が繊細な図柄を引き立たせ」るが、また「作品の特徴として、まずは作品の色彩の豊かさと色彩の透明感が挙げられる」という。

 

 

 

「七宝焼の色彩となる釉薬」は、「それぞれの鉱物を焼成した際の化学変化」によって作られる。並河は、「試行錯誤を重ねて、多くの色彩や色彩のグラデーション」を作り出した。

 

まずこれだけのことを、前提として説明しておく。そして今日、この並河靖之が工房兼住居としていた「並河靖之七宝記念館」(東山区三条通北裏白川筋東入ル)に出掛けていた。

 

 

(すぐ横を流れる白川の清流)

 

建物は京町家の「オモテヤ造り」で、国の登録有形文化財や京都市指定歴史的意匠建造物になっている。また庭園は「7代目小川治兵衛」が作庭し、京都市指定名勝となっている。

 

 

 飾られている作品や、建物の内部は基本的に撮影禁止になっているが、庭園や外部からの撮影は許可されていたので、写真は外から見た建物と、庭園の風景になってしまう。

 

 

(犬走りに埋め込まれた方広寺や法勝寺の古瓦)

 

(同上)

 

「有線七宝」というけれど、極細の金・銀線を使って作り出された作品の、繊細さは言うに及ばず、その透明感のある色調の見事さにも、ため息が出るほどだった。

 

これらの作品が、明治中期から戦前にかけて、何度かの浮沈はありつつも、海外向けに好評を博し続けたということだ。

 

 

 

並河邸は、実は隣家が今も「植治」すなわち〝小川治兵衛〟さん宅。現在は、11代目が社長だったと思う。つまり明治期には、名人・7代目小川治兵衛が隣人だったわけだ。

 

 

 

それで並河家の庭園は、小川治兵衛の若き日の作庭。工房と窯場と主屋に囲まれて、さして広くない庭は、琵琶湖疏水の水を引き込んだ池が、母屋の下にまで及んでいる。

 

 

 

この庭に3m以上もある燈籠などが並び、大きな踏み分け石や沓脱石も使われている。そして何よりも、縁先の「一文字手水鉢」がスゴイことになっていた。

 

 

(3m以上はありそうな大きな石燈籠)

 

鞍馬石に一文字に彫り込んだ手水鉢は、宙に浮かして据えられている。下手に触れば〝一大事〟になりそうな気がする。名人植治でも、さすがにこれは〝オイ、オイ〟という感じ。

 

 

 

 

まずは〝行って良かった〟という感想。我が家からは、30分とはかからない距離だし、今日は蒸し暑い日だけれど、それほど歩くわけでもなかったから。