やや肌寒いけれど、好天となった日曜だったので、少し遠出をして京都市の南、八幡市の男山山上にある「石清水八幡宮」まで出掛けていた。
この「石清水八幡宮」は、桂川・宇治川・木津川の三川合流点を見下ろす「男山」の、標高120m余りのところに、どっかと腰を据えている大規模な八幡様である。
平安時代初期の859年に、奈良・大安寺の僧「行教」が、九州の宇佐八幡宮から八幡大神を遷座して、国家守護の社としたのが起源とされている。
それ以来、朝廷の尊崇も厚く、「天皇の行幸や上皇の御幸が延べ240余度にも及んだ」とパンフレットに書かれていた。
「葵祭(賀茂祭)」を『北祭』と呼ぶのに対して、こちらの「石清水祭」は『南祭』と呼ばれ、さらに奈良の春日大社の祭礼と合わせて、「三勅祭」とも呼ばれてきた。
「勅祭」というのは、要するに朝廷から勅使が派遣されて行われる祭礼であり、「石清水祭」も日本全国の『祭礼』の中でも最も格式の高いものの一つ、とされてきたことになる。
その上、〝弓矢八幡〟という言葉が示すように武の守り神で、武家の信仰も集めてきたから、現社殿も織田信長が修復し、豊臣秀吉・秀頼の再建を経て、徳川家光が社殿を造営した。
それくらいに歴史と謂れとを併せ持ったところが、ここ「石清水八幡宮」ということになる。そのために、社殿も宇佐神宮と並んで、全国でも数少ない「八幡造」となっている。
私たちが「石清水八幡宮」に普通にお参りをした場合は、他の神社のように「拝殿」の前で手を合わせ、奥にある「本殿」に向かってお参りをする、というのとは異なっている。
山上の八幡宮に着いたなら、私たちは南総門を通って、回廊に囲まれたところに進み、一段高い社殿に至る。数段の石段を上がり、そこで奥に向かって拝礼し拍手を打つ。
この拝礼をしている場所は、上に楼を上げた「楼門」と称されている場所である。この「楼門」から奥に向かって「舞殿」「幣殿」があって、その奥に「本殿」の外殿・内殿がある。
他の神社であれば、「本殿」の前にある「拝殿」から、奥にある「本殿」に向かって拝礼するが、ここはその随分手前から、ずっと奥にある「本殿」を拝んでいることになる。
それだけ、神社としての格式が高いと言えるのだろうか。似たような作りになっている神社を考えれば、北野天満宮も比較的そんな感じに作られているかと思う。
いずれにしろ、こんな社殿の構成になっているけれど、〝御祈祷〟をお願いすれば、奥にある「幣殿」の辺りに上げてもらって、祈祷を受けることができるようだ。
この「本殿」を構成している一連の建物は、すべて国宝に指定されている。また社殿の東西南北にある総門は、いずれも重要文化財になっている
というお宮さんが、この「石清水八幡宮」である。今日は、京阪電車で「石清水八幡前」駅まで行って、そこからはケーブルカーで男山山上に上がった。
ケーブルカーは、ちょうど社殿の裏となる北側に着く。そこから広い社殿の周りを、ぐるりと半周する形で「南総門」の前に着く。門の前から南を見れば、随分先に三の鳥居が見える。
一の鳥居、二の鳥居はいずれも山の下にあり、本来ならこれらを潜って表参道から歩いて山上に至り、三の鳥居を潜って南総門に至るのが参詣の道になる。
そこを一気にショートカットして、ケーブルカーで上るという横着をしているわけである。まあ今の世の中だし、私は高齢者なので、それが正しい行動だとは思うが。
「本殿」に向かってお参りをしてからは、「本殿」を取り巻いて摂社・末社があるので、それらにお参りをする。摂社・末社の中でも、「若宮社」と「若宮殿社」などは重要文化財となっている。
(若宮社)
(若宮殿社)
一渡りお参りを済ませた後、社殿の北側にある展望台へ行った。ここからは、京都盆地が一望できる。はるか向こうに、比叡山が見えている。
すぐ目の下では、三つの川が合わさって淀川と名を変えて大阪湾に向かって行く。淀川を挟んだ向かい側は、京都と大阪の府境の京都府山崎町になる。
また、「石清水八幡宮」がある男山も、すぐ南側に接しているのは大阪府枚方市である。
こうして、広々とした景色を見ることができる場所というのも、そうあるものではないかもしれないが、逆に言えば、京の都の入口として戦略的に重要な地点でもあった。
帰路に、長い石段を歩いて下るのは膝に悪い、という理由を自分に言い聞かせて、ケーブルカーで下った。以前に来たときは、さすがに帰路は歩いて下ったから、だらしないと思う。
(展望台の脇にはきれいな花が植えられていた)
ただやはり日曜とあって、そこそこの人出だった。そんな日曜日だった。