新緑の詩仙堂へ | がいちのぶろぐ

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ほんとうに久し振りの拝観だった。京都・一乗寺にある「凹凸窠 詩仙堂丈山寺」に出掛けた。以前に行ったのは、多分高校生ぐらいのときだったから、60年振りということに。

 

 

 

そもそも、「詩仙堂」の前は何度も通っている。「詩仙堂」の前を過ぎて、その先にある狸谷不動へ行ったこともあれば、「詩仙堂」のすぐ北にある「圓光寺」へ行ったこともある。

 

もっと言えば、かつて京都の公立高校は小学区制で、住所地で公立高校の進学先が決められたから、「詩仙堂」のある一乗寺地区は、私の高校時代には高校の通学区域だった。

 

 

(詩仙堂の近くからは市街地が望める)

 

そんなことだから、極端に言えばいつでも行ける場所だけに、つい「詩仙堂」の前を素通りしてしまうようなことだった。だから、今日はもうホントに久し振りに行くことにした。

 

「詩仙堂」は江戸時代の1641年に、かつては徳川家康の腹心だった石川丈山が、隠居の地としてここに草庵を建てたことに始まっている。

 

 

 

「詩仙堂」のリーフレットに依れば、「詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸窠(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室」である。

 

 

(四畳半の「詩仙の間」と肖像画)

 

つまり「詩仙堂」は、「中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた」から、その部屋を「詩仙の間」とした。

 

この部屋が、建物全体のいわば中心的な部分となっているので、「凹凸窠」が何時の頃からか「詩仙堂」と呼び習わされてきた、ということだ。

 

 

 

それに、丈山がここに草庵を建て以来300年以上もの長い間、単に草庵という「家」だったけれど、昭和41(1966)年になって、曹洞宗の寺「丈山寺」となった。

 

ということは、私が以前に来た時は、まだ単に石川丈山が隠棲していた草庵で、寺院になる前だったということになる。だから今日も、とても禅寺らしい趣は感じなかった。

 

 

 

そんなことで、今日は〝初めて〟「詩仙堂丈山寺」を訪問したことになる。〝草庵の門〟という風情が強い山門をくぐって建物に行く。

 

 

 

元来が草庵だから、建物全体も本当にこじんまりとしたものである。その中心には「詩仙の間」があり、そして何よりも開け放たれた先には、自慢の庭が広がっている。

 

 

 

 

「凹凸窠」とは〝凹凸のある土地〟という意味で、山の麓というより山の中腹と言った方が良い場所だけに、庭は主屋の前から奥に向かって下がっている。

 

 

 

その庭の下となる方には、「百花塢」と名付けた様々な花を配した場所や、「残月軒」「十方明峰閣(坐禅堂)」などという名前の、小さな建物も建てられている。

 

 

 

 

そして有名な「添水(そうず;鹿おどし)」も庭の一隅にあって、時折りカッツーンという音を響かせている。これは、丈山が考案したものとされている。

 

 

 

私にすれば60年振りの訪問だったけれど、特に何が変わったというわけでもない。だが今日でも、それなり以上に拝観客があり、それも欧米系の外国人が目立っていた。

 

 

 

今日のこの観光客を見れば、いよいよ京都にも観光客が戻って来たのは、本物だという気がする。