統一地方選の前半戦が終わり | がいちのぶろぐ

がいちのぶろぐ

環境問題と経営の接点、中小企業の戦略やマーケティング活動,
観光・伝統産業関連などについて、「がいち」が考えたこと、思ったことを書きとめてゆきます。

統一地方選挙の前半戦が終わり、大阪府知事・大阪市長選挙や、奈良県知事選挙、関西圏の府県議会議員選挙、政令市の市会議員選挙で勝った「維新の会」の躍進が注目されている。

 

その一方で、京都では牙城を誇っていた共産党が府・市ともに一気に凋落し、同様に京都の府・市会議員選挙では、立憲民主党も全く振るわなかった。

 

かつての衆議院議員選挙では、京都1区から6区まで、すべての小選挙区で民主党が自民党に勝ったこともあった。それが今回は、ほんとうに惨憺たるありさまである。

 

現在の立憲民主党の代表も、これまでの幹事長も京都選出の国会議員だ。いわばお膝元の選挙で惨敗とあれば、立場がないというか、辞任ものだとも言える。

 

それ以上に私が悲惨に感じたのは、共産党の候補者リストを詳細に見た時だった。京都府議会・市議会の候補者の年齢が、共産党だけ他党と比べて異様なほど高齢化が進んでいた。

 

実に多くの候補者が70歳代だったのだ。他党は、自民党ですら50歳代が多く、60歳代も少なくはなかったが、70歳代がずらっと並ぶということはなかった。

 

私と同世代の人たちが、共産党の地方議会議員の候補として立っていることに、私はある種の痛々しさを感じてしまった。私たち団塊の世代は、『70年安保』を経験してきている。

 

私たちの世代は、その時の行動が良かったかという議論を抜きにして言えば(そこは抜けない、と言われるかも知れないが)、政治と向き合う時代に生きていたことは間違いない。

 

だから1970年代前半には、多くの若者が共産党という組織を知っていたと言える。そうした若者の中には、そのまま共産党の活動家となり、今日に至っている人もいるだろう。

 

その人たちが、そのままで立候補している、と考えざるを得ない。つまり共産党は、ほとんど新陳代謝が起きていないのだ。現在の共産党の国会議員にも団塊世代が存在する。

 

でもこの間、共産党の委員長選出過程がオープンにされておらず、現委員長は20数年もその座にいる、と告発した党員2人が除名され、やはり党の体質が問題視されている。

 

結局、若い人たちにすれば、政治党派として魅力がなくなってしまい、その結果、人材補充が追い付いていないのだ。だから、70歳代の候補者がずらっと並ぶことになったと思う。

 

世界を見渡せば、共産党政権だから共産主義国と言われる国は、ヴェトナムや中国などほんの一握りに限られてくる。ロシアも独裁国家ではあっても、共産党政権ではない。

 

それほどに、政治的イデオロギーとしての「共産〝党〟主義」(共産主義ではない)は、独裁的だとして人気が無くなっている、と言えるのかもしれない。

 

だけど、世界には独裁政権が決して少なくない。極端に言えば、グローバル・サウスと言われる国々には、多かれ少なかれ独裁的な政権が存在する可能性が高い。

 

こうした国々の多くは、敵対勢力に対して政治的弾圧などもあって、選挙による政権交代が考え難いという性質を持っている。

 

その一方で、建前としては選挙で〝政権交代ができる〟はずなのに、わが国の現状はどうなのだろう。政権交代をしてみたが、受け皿がひどく未成熟だった、という評価だろうか。

 

もちろん今回の統一地方選では、自民党も決して手放しで喜べる状態ではなかった。それにも増して、統一教会の問題は、自民党の議員の中でまだまだ払拭されたとは思えない。

 

日本と、そこで暮らす人たちが貧しくなっていく中で、そんなことなどいっさい〝あずかり知らぬこと〟とばかり頬かぶりして、ただ人々が忘れ去ることを期待しているのか。

 

いずれにしろこのままでは、この国はもう政治とは断絶した、政治に切り捨てられた人たちで溢れ返ることだろう。そんなことを感じてしまった、今回の統一地方選前半戦だった。