「思いを馳せる」という行為がある。なにがしかの「こと」に対して、その時点では直面していないけれど、その「こと」についてしばし考える、という場合に用いられる。
「足跡を偲ぶ」とか、「思い出す」といった行為ともよく似ている。「思い出す」ならば、その「こと」を自身が直接知っているか、体験している場合だろう。
「足跡を偲ぶ」というケースであれば、どちらかと言えば自分自身は、その「こと」と直接に触れあってはいない、という場合が多いと思う。
「思いを馳せる」のであれば、自分自身が直接にその「こと」と触れ合っている場合も、まったく触れあってはいない場合であっても、そのどちらもが考えられる。
突如こんなことを言い出したのも、実は「○○の跡を訊ねて」というスタイルの観光が現実に成立しているけれど、〝それって何だろうか〟とずっと疑問に思っているからだが。
京都市上京区が発行している、「上京・観光マップ」といった類の地図がある。こうした地図を眺めると、「○○邸跡」とか、「△△寺跡」などという表記を見ることが多い。
つまり、現在は全くそのような○○も△△も存在していない。せいぜいのところ、20cm角ほどの石柱が立っていればまだましな方、といった状況なのだ。
こんな場所に行って、〝ここに○○が住んでいたのか〟とか、〝ここにあった△△は、さぞ立派だったことだろう〟などと頭に思い描いてみるのが、「思いを馳せる」という行為だ。
では、その場所に現実的には〝ない〟もので、しかも自分自身は直接かかわっていない「もの・こと」に対して、それを薄っすらとでも頭に思い浮かべるためには、何が必要だろうか。
そういった〝思い浮かべる〟ために必要なのが、「情報」ということになる。この場合の「情報」の中味は、可能な限りビジュアル化されていることが望ましい。
写真や絵画といった図像があれば、それらは情報としてより質が高い。図像がなければ、せめて詳細な記述があって、頭の中でイメージできるなら、まだ〝まし〟としたものだろう。
(平安京の復元模型/京都アスニー)
図像などは無く、詳細な記述も無くて、地図上でも実線で囲うこともできず、ぼんやり〝この辺り〟という表示であれば、規模すら推測もできず「思いを馳せる」ことが難しくなる。
というようなことを、クドクドと書いているのも、上京区が発行している町歩き用の地図などには、そういう「○○跡」といった情報がいっぱい記されているからなのだ。
こうした地図を持って、それが有った当時のことを〝思い浮かべながら〟町歩きをしてみよう、と言われても、思い浮かべるきっかけもつかみにくいのが現実かもしれない。
だから、せめてきっかけとなるような、なにがしかの情報は欲しいと思う。その点、もし優秀なガイドが案内してくれたなら、多少は情報がインプットされるかも知れない。
ガイドの豊富な知識で、出来るだけ詳細に情報不足を補ってくれたなら、それだけでも、多少なりとも「思いを馳せる」ことができるようになるだろう。
何の情報も無いよりは、頭の中で随分と図像を思い描きやすくなってくる。こうして、人によっては「思いを馳せる」ことができる可能性も増えるだろう。
時には、かつて何かがあった場所の発掘調査が行われ、その調査の様子の写真や、出土物などの「実物」によって、情報が補強されることもあるかもしれない。
こうなれば随分とビジュアル化が進んで、「思いを馳せる」機会も大きくなってくる。それらが、考古資料館や歴史資料館といった施設に期待される役割となる。
ということで、私も少しは時間を取れる日がありそうだから、考古資料館や歴史資料館などの〝春の特別展〟といった催しに出掛けてみようかと思う。
特に3月下旬になれば、京都国立博物館で「親鸞」展が開催される。それなりに観覧料は高いけれど、今年は親鸞生誕850年という節目の年だから、行ってみる価値はあるだろう。
そこで仕入れた情報とともに、地図を片手に親鸞や浄土真宗の史跡を回れば、鎌倉仏教と言われる「もの・こと」に「思いを馳せる」ことにつながると思う。
さて、上京区発行の地図の上でも、親鸞や浄土真宗に関係する場所を探しておかないと。