今夜は、M-1グランプリの決勝大会が生放送される。当たり前のことだけどまったくの他人事だが、私にとっては毎年、なぜかしら一大事に思えるイベントである。
だから毎年、とりあえずオンエアを見ないと落ち着かない。M-1が始まったころと違い、最近は決勝に出て来る芸人さんも、知らない人がほとんどという状態になった。
それでも、今晩の結果いかんでは、その芸人さんの人生が全く変わってしまうかもしれないという事実は、それだけでも見ている人間をドキドキさせる要素となる。
〝そんなこと、知ったことではない〟と言われたらそれまでだけど、好きなものは好きということで、今夜はテレビから離れられない。その後には、ワールドカップの決勝戦もある。
今回がワールドカップは最後と言われている、メッシ率いるアルゼンチンに勝ってもらいたい気もするし、若くて溌剌としたエムバぺのいるフランスも強いだろうな、と思う。
私の孫の豆台風くんは、大のサッカー小僧になっていて、聞くところではエムバぺもお気に入りのようだから、今夜ばかりは深夜まで起きていても、私の娘も許すのかな。
ところで、今日の京都新聞の1面に掲載されていた、「天眼」と題されている、有識者(?)メンバーがリレーで書いている評論がとても印象的だった。
筆者は、元・大阪大学学長で哲学者の鷲田清一氏。私より3歳ほど年下で、まずは同世代と言っても良い方である。
鷲田氏には、「京都の平熱 哲学者の都市案内」(講談社学術文庫、2013)という名著がある。その鷲田氏の「師走のもう一つの声」と題された記事が、とても共感性に溢れていた。
記事の文章の出だしで、「喪中はがき」が届くことに触れておられた。「喪中はがきで知るのは、そもそも親しい人の死ではない」という。たしかに、親しい人の「縁戚の死」を知るのだ。
ただ、「いずれにせよこの歳になると、(中略)同世代の人たちの死の報せにふれることがおのずと増す」と書かれる。私にしても、まったくその通りだ。
この間、もちろん知人ではないが、歌手の葛城ユキさんや水木一郎さん、俳優の佐藤蛾次郎さんなど、少し上下の差こそあれ同世代と思える人たちの、立て続けの訃報を聞いた。
そうした年齢に差し掛かっていることを踏まえて、鷲田氏は「久しく会っていないだれかのことを想うその仕方にも、(中略)微妙な変化が起こっている」と書かれる。
「歳のせいで死との距離感が違ってきたこともあるのかもしれない」というのだ。その「死との距離感」という感覚は、私にももの凄くよくわかる。
鷲田氏の文章の、「あの場面ではこうだったよなあというふうに、空間でよりも時間の中で、その人を想うことが多くなってきた」というくだりで、思わずぐっと来てしまった。
だから、「あらためて考えてみれば、ひとの心を震わせる、あるいは痛ませるのは、そう言う『ない』もの、不在のものへの想いなのであろう」ということになる。
一方で、「戦争や災害や病は人の意識を現在に括りつける」し、これらが描き出す「未来は見えにくい。それに過去に経験のないことが重なる」という。
こんな状況では「不在への想いが働きにくい。だから希望も悔恨も確かなかたちをとらない」のだ。こうしたことが、私たちの身の回りの現実でもある。
だからこそ「不在の報せ、ひとがもはやこの世にいないことを報せるはがきに感ずるところがあったのだろうか」と、自身の心の変化を述べておられた。
そして「喪中はがきに気がゆくようになったのは、今年がはじめてのこと」と結ばれていた。凄く切なくて、私にとってもすごく身に沁みる話題だった。
特に奥様の名前で寄せられる、知人本人の喪を報せるはがきは、事前にその事実を知っていたとしても、あらためて心にスゥーッと風が吹き込むような気持になる。
まさしく、「不在のものへの想い」という言葉がぴったりするような気持ちになって来る。