今日の午前中は、私が関わっている「やさしい日本語」を広めるNPO団体の、年度末最後のオンライン・ミーティングがあった。
今年度に、京都市上京区の助成金を受けて行った事業の完了報告書と、それに関わる決算並びに助成金請求のための収支報告書の中味を、メンバーで点検・共有した。
これを31日までに区役所の担当課に持参するとともに、区役所のロビーに成果報告会として張り出される、A3版2枚分の掲示用ポスターも今週中に提出する。
これで、2021年度の私たちの団体の活動が一応の締めくくりとなり、来週の月曜に行うミーティングから2022年度の活動のスタートということになる。
それにしてもコロナ禍が続いているため、何よりもリアルな会場で行うワークショップが開催できないので、フラストレーションが溜まるというか、何か吹っ切れない気分だ。
なぜ「やさしい日本語」を広めて行きたいかという〝原点〟は、何よりも定住外国人と日本語を第1言語とする人たちの間で、良好なコミュニケーションを図りたいと考えるから。
そのための道具として使う「やさしい日本語」は、〝わかりやすい〟という意味での「Plain Japanese」であり、同時に〝心優しい〟という「Tender Japanese」でもある。
決して、単語や構文として「簡単な日本語」を使う、という単純な中身を意味しているだけではない。もちろんそれ自体は、前提として考えるべきことではあるけれど。
それよりも、まず相手の立場や、置かれている状況を慮って、どのような表現をすれば相手とお互いに理解し合えるだろうか、ということを考える。
ここに基礎を置いたコミュニケーションを図れば、単に定住外国人だけではなく、聴力に衰えが始まっている高齢者や、幼い子どもたちにもわかりやすく伝えることができる。
ただし、これにもやはり何かしらの〝技術〟が必要になる。「ユックリ」「はっきり」と発話することが第一であり、難しい単語を避けて「センテンス」も短くする方がいい。
それに私たちは、ともすれば気づかずに話していることが多いけれど、あえて主語を抜いてしまったり、動詞を最後まで言い切らなかったりする〝日常〟会話もある。
そういう話法には不慣れな人と会話した場合、私たちには当たり前であったとしても、そのままだと誤解を生む原因となることもある。
だから、まだあまり日本語に習熟していない外国人をゲストに招いて、実際にどういう表現をすれば必要な情報が伝達できるか、ワークショップを通して体験してもらいたい。
これが私たちの団体の基本的なコンセプトであり、この考え方を普及するために私たちは活動している、と言える。
それがコロナ禍のために、人が集まること、集まって顔を突き合わせて話し合いをすること、話し合いの中から体験的に習得して行くことが困難になってしまっている。
それに輪をかけて、新規に入国して来る外国人が極端に制限されている。観光客としてではなく、仕事や留学のために入国する外国人が制限されている。
つまり私たちの活動が必要とされるケースが、徐々に減っている可能性がある。定住外国人の日本語能力が上がってくれば、私たちの出番は減って来る。
それ自体は、お互いにとって良いことなのだ。だけど、相手の会話能力が上達したために、むしろ〝漢字混じり文〟の読み書きもできる、と勝手に思い込んでしまうこともある。
漢字圏で生まれ育ったと言える人間は中国・台湾・日本、それと世界に散らばっている華人に限られる。だから会話能力が上がって来ても、漢字が読めないことは常に起こり得る。
これもまた、私たちの意識の持ち方としては落とし穴になる。〝つい〟解っていると錯覚して、漢字混じり文の〝お知らせ〟などを手渡してしまう。
でもこれでは、読めない=理解できない=情報が伝わっていない、ということになる。ここからまた、誤解が広がって行ってしまう。これを防ぐことも、考えないといけない。
つまり文章の場合には、漢字に徹底的にふり仮名を付ける、という作業が必要になる。これも面倒くさい作業だ。でも面倒だと思った瞬間に、〝心優しい〟がすっ飛んでしまう。
私たちが「やさしい日本語」を広めたいというのは、「心優しい人間関係」を広めたいということに他ならない。