息子の家族とお彼岸の墓参りの日に | がいちのぶろぐ

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今日は大阪の息子一家が来て、一緒にお彼岸の墓参りに出掛けた。息子は現在、ソウルに単身赴任中で、この2年間は一時帰国がまったく出来なかった。

 

 

 

今回、隔離期間がやっと3日間に短縮されたお陰で、どうにか一時帰国することができた。それまでは日本で2週間、韓国でも2週間という隔離期間があった。

 

これではほぼ1カ月が無駄になるから、帰国しようにもできない状態が続いていた。飛行機に乗っている時間は1時間半ほどなのに、その隔たりがとても遠い状態だった。

 

今回は、日本での仕事と休暇を合わせて、3週間は日本に滞在できるという。それで、今日は一緒に墓参りということになった。

 

 

 

午前中に知恩院の御影堂の前で待ち合わせて、さらに上の我が家のお墓があるお寺に向かった。墓参りそのものは、毎度のことながらあっという間に終わってしまう。

 

 

 

お墓に手を合わせてからは、知恩院の近くの中華料理店に予約をしていたので、それまで1時間ほど時間が余ってしまった。だから知恩院でも、滅多にいかない場所へ。

 

まずは、知恩院では最も古い建物とされる「勢至堂」というお堂の横を抜けて、この広い知恩院でも一番奥にある「濡髪明神」の祠へ。

 

 

 

 

そこに至る途中には、上段にある「御廟堂」との間の崖から「紫雲水」が湧いているし、この辺りは、その崖がちょっとした庭のような趣になっている。

 

 

 

「勢至堂」の横から墓地を通り抜けて「濡髪明神」へ向かったところ、突然に「千姫」のお墓が現れた。

 

千姫とは、徳川家康の孫で、徳川秀忠とお江の方の娘。2歳の時に豊臣秀頼の許嫁になり、わずか7歳で豊臣秀頼に輿入れして大阪城に入った。

 

 

 

だけど、18歳の時には大坂夏の陣で大阪城が落城となり、淀君や秀頼と一緒に自害するところを、淀君が千姫の助命を嘆願したので、自害の寸前に助け出された。

 

 

 

その後、20歳の時に本多忠政の子息・忠刻と再婚し、姫路城で暮らしていたが、本多忠刻が夭折したため江戸へ戻り、最後は70歳でこの世を去ったという。

 

この千姫の葬儀の導師を知恩院の門主が勤めた関係から、小石川・伝通院にお墓があるが、知恩院にも分骨されたらしい。それで、「勢至堂」の墓地に立派な宝塔が立っていた。

 

 

 

この千姫のお墓のすぐ後ろに、「濡髪明神」が祀られている。この祠は、知恩院が建立されたときに棲み処を失った狐が、住職にそれを訴えたという伝説から来ているらしい。

 

この狐を哀れんだ住職が祠を建てたというのだが、さてその辺りは何がどうなのかはよく知らないが、〝謂れ〟としてはなかなかに楽しいもののように思える。

 

 

 

この後、知恩院の御影堂に上がってお参りをした後は、この巨大なお堂の周りをぐるりと一回りした。知恩院の境内で、こんなにゆっくりと時間を取れるのも滅多にないことだ。

 

 

 

 

 

 

これでそろそろ良いくらいの時刻になってきたので、山を下って白川の流れに臨む中華料理店「ぎおん森幸」という店に入った。これが正解で、なかなかに良い味のお店。

 

 

 

 

壁いっぱいに、〝絵師〟の木村英輝さんの孔雀が描かれていた。この方は、日本のロックミュージック・シーンを引っ張ってこられた経歴の持ち主。

 

 

 

 

 

とまあ、こんなことで墓参りの一日を過ごした。家で夕食を食べた後、8時前には息子の家族は大阪へ引き上げて行った。