狭苦しい部屋で堅苦しい作法で茶を飲むこととは | がいちのぶろぐ

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今年は、1522年に生まれた「千利休」の〝生誕500年〟という節目の年なのだそうだ。ただ私はこれまで、茶の湯や茶道というものと、〝縁もゆかりもない〟人生を送ってきた。

 

だからというわけでもないけれど、私は「茶を飲むというだけのことに、なぜ堅苦しい所作を求め、なおかつ、そのための免状制度まであるのか」と疑問に思ってきた人間である。

 

 

 

とは言えこんな私でも、節目の年ということもあって、千利休に関係した本を読むようになっている。昨日、大垣書店の新しい店に行ったのも、関連した本を探すためだった。

 

昨日の店舗では見つからなかったので、家に帰ってから大垣書店の在庫検索を行って、〝在庫あり〟という店舗が見つかったから、今日はその店まで買いに行った。

 

昨日は、なぜ在庫検索してから行かなかったか。それは、何よりも新しくできた店舗のコンセプトが気になっていたから、一度覗いてみたかったので。その話は、昨日書いたとおりだ。

 

そこで今日の午前中は、〝在庫あり〟と検索でヒットした、我が家からは〝はるかに〟離れた店舗イオンモール桂川〟の中にある大垣書店まで、買い求めに出掛けていた。

 

どれくらい離れているかと言えば、我が家からまず市バスに乗ってJR京都駅まで30分掛かる。JR京都駅から、電車で2駅離れたJR桂川駅まで約5分。

 

 

 この駅と直結して〝イオンモール桂川〟がある。ここまで、ドアツードアで小1時間を要する。求める本1冊を買うのに、往復で2時間をかけるという優雅な仕儀になった。

 

それにしても〝イオンモール桂川〟は、郊外型大規模複合店の見本のような店舗で、中はだだっ広くてどこに何の店があるのか、こういう場所に馴染みのない私は迷子寸前だった。

 

何とか大垣書店のコーナーを見つけ、ようやく求める本にたどり着いて買い求めはしたけれど、今度はさっさと帰らないと、昼食前に帰り着けないというありさまだった。

 

なんで、そんなにまでして本を買いに出かけるのか、ということになる。最近なら、アマゾンはもちろん、大垣書店でもネット通販で購入することができる。

 

そこが〝高齢者〟の悲しさで、やはり手に取ってパラパラと本の目次や中身を見ないと、買うべきかどうかを最終的に決めかねる。実物を見ないで買うのは、やはり嫌なのだ。

 

ということで、「千利休」(村井康彦、講談社学術文庫、2004)という文庫本を買ってきたけれど、帰宅後に、この本の「解説」を先に拾い読みしていて、目が釘付けになった。

 

 

 

民族学博物館教授の熊倉功夫氏が、解説を書いておられた。少し長いけれど、この解説から引用をさせていただく。

 

「『どうして茶をわざわざ堅苦しい思いをして飲まねばならないのだ』という実感を問題にしている(中略)岡本太郎さんが質問して、『どうして……』と先の疑問を呈したという」

 

 

私と同じ疑問を、あの〝芸術は爆発だ〟の岡本太郎氏も考えていた‼それへの解答として、著者の「村井さんは次のように述べる」と熊倉氏が続ける。

 

「形式性を否定してしまうと、茶湯はたちまち日常的行為に還元し埋没して、その存在の根拠そのものをみずから否定することになる。」

 

「つまり茶湯とは、日常生活に基づく営為であるがゆえに、その日常性をいったん否定し、そこから乖離しなければ成立しないのである。だからそれは一種の『虚構』といってもよい。」

 

「要は茶の湯の場はバーチャルな世界、ということにでもなろうか。これは村井さんの『茶の湯論』である。」

 

ということだから、私の、そして岡本太郎氏の疑問である「どうして茶をわざわざ堅苦しい思いをして飲まねばならない」に対する解答を、この本は与えてくれるのだろうか。

 

 

 

さて、原稿用紙にして550枚以上にも及ぼうかという、濃い内容のこの本をじっくりと読んで、著者の村井康彦氏の「茶の湯論」を何とか少しでも理解できたら、と思う。

 

それにしても、狭っ苦しい茶室に籠って、堅っ苦しい作法に則ってまで、なぜ茶を飲むことを嗜もうとするのか、私なりに少しでもわかれば良いなと思っている。