小町寺にもデパートの展示会にも | がいちのぶろぐ

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昨日の午前中は、私が関わっている「やさしい日本語」を広めるNPO団体が主催したオンライン・セミナーがあった。そのことは昨日のブログに書いた。

 

このセミナーの後、午後には京都市北部の町外れ、鞍馬寺に向かう鞍馬街道沿いの「市原」という地区にある、通称「小町寺」の「補陀洛寺」に出掛けていた。

 

 

 

このお寺はあの「小野小町」が年齢を経て、〝終の棲家〟としたお寺ということになっている。小野小町は〝絶世の美女〟として有名だけど、詳しいことがわからない。

 

 

 

 

生没年も不詳なら、親や家系も、晩年をどこで送ったかも、実はわかっていない。在原業平や文屋康秀と並んで、平安時代前期に活躍(?)した「六歌仙」の一人とはされているが。

 

藤原定家が編集した百人一首には、「花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世に降る ながめせし間に」という、有名な歌が収められている。

 

そもそも、〝深草の少将〟が〝百夜通い〟の果てに亡くなったという伝説で有名で、こうした伝説を基に、能楽の題材としても「卒塔婆小町」をはじめ何番も取り上げられている。

 

 

 

 

名前からして小野氏の一族だろうと考えられるから、京都市山科区小野にある「随心院」には文塚や卒塔婆小町像などもあり、3月末にはここで〝はねず踊り〟といった行事もある。

 

しかし、「小野小町」の晩年に至っては全くの不明で、あちらこちらを流れ歩いたという話もあり、墓と称する場所も秋田県から山口県まで全国に15カ所以上もあるくらい。

 

その中の一つが、昨日行った京都市左京区の「補陀洛寺」ということになる。ホントに小さなお寺だが、本堂に掲げられた額は「小町寺」となっていた。

 

 

 

 

だから「小野小町」の供養塔はもちろん、〝深草の少将〟の供養塔もある。さらに、晩年の小町の〝老いさらばえた〟像も、本堂に安置されているということだ。

 

 

 

昨日行った時も、境内では〝小町姿見の井戸〟と立札に書かれている、小野小町が姿を映していたという元は井戸らしき〝穴〟の跡も見受けられた。

 

 

 

ただこのお寺が、「小野皇太后(後冷泉天皇皇后)が出家して天皇の菩提を弔うために隠棲した常寿院」の跡という説もあり、だから小野皇太后供養塔も立っていた。

 

 

 

というところへ行った。これで、「通称寺の会」に参加しているお寺も、大半は行くことができた。残っているお寺は、ちょっと行って帰るというには遠い場所にある。

 

それにしても、暖かな週末になった。今日は午前中、京都の中心部の百貨店に出掛けたが、この1週間で急に薄着になった。それでも、どうかすると汗ばむほどだった。

 

大丸京都店で「余白のある暮らし博」という展示・即売会をやっているということだったので、どんなものか見物に行ったのだが、これがなかなかに面白く感じられた。

 

 

 

出品されているのも、ユニークな活動をされている方々ばかりで、並んでいる作品などを見ているだけで、何かふわりと微笑が込み上げて来るような催しだった。

 

 

 

 

中には〝釈迦涅槃図〟を描いて、その〝余白〟を観客が自分なりに〝動物の絵で埋めて下さい〟という展示もあった。端っこには、可愛い動物たちが書き入れられていた。

 

 

 

 

 

なかなかに楽しい展示・即売会を見ることができた。いろんなコーナーで、チラシやリーフレットも受け取った。持ち帰って読んでいても、作品を思い出して楽しかった。