異文化間コミュニケーションが持っている幅の広さ | がいちのぶろぐ

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今日の午前中は、私が関わっている「やさしい日本語」を広めるNPO団体が主催するオンライン・セミナーが開かれた。

 

講演会は「外国につながる子どもたちや保護者とのよりよいコミュニケーションのために」と題して、日本で子育てを行っているカナダ人女性の大学教員が講演をされた。

 

 

 

参加者は10名ほどだったが、40分ほどの講演はご自分の体験を中心に、どんな場面で困ったり、どんなことでストレスが解消されたりしたか、詳細に話していただけた。

 

中でも印象的だと思ったエピソードは、この女性の方も随分と気を使いながら、役所の窓口に行かれたけれど、窓口で対応する側が勝手にパニックになっていた、という話。

 

日本人は、とにかく外国人が怖いのだという。何が何でも英語を話さなければ、という恐怖心に駆られてしまって、その段階でもう〝逃げ腰〟になっている。

 

だから不必要に早口で話してしまって、より一層、お互いが困った状態になってしまうことが多い。心に余裕を持って、ゆっくりと日本語で話してもらえれば、ということだった。

 

そんな彼女が〝うれしかった体験〟として語ったのが、ひらがなを中心に、紙に書きながらゆっくりと話してくれた窓口の人がいた、という話だった。

 

そしてお互いに、どこまで分かり合えたかを確認しながら、話を進めて行ってくれたということだった。お蔭で、それまで嫌いだった役所の窓口へ行くことが楽になったそうだ。

 

ささやかだけど、お互いが成功体験と感じられるようなことがあれば、それ以後が随分と楽になる。むしろ、役所などの窓口に行く外国人は、その瞬間とても緊張しているから。

 

講演の後の質疑応答でも、実際に幼稚園や保育園などで仕事をしている人から、今日の講演を聞いて肩の力が抜けたと思う、とか、すごく楽な気持になったという感想が出た。

 

私が講演を聞いていて、これは面白いと思えたのは、「異文化間コミュニケーション」という場合、私たちは外国人との間にある関係性だけを思ってしまう、という話だった。

 

「異文化」と言った場合、その中味には〝男女間の差異〟もあれば、年齢による違いもあるし、日本であれば育った地域差による文化ギャップもある、と指摘をされた。

 

確かにそうだ。私自身テレビを見ながら、つい「最近の若い者は」という内容の発言を行っていることがある。これは、異文化間コミュニケーションの問題だと理解していなかった。

 

世代・年齢によって、育ってきた環境には大きな隔たりがある。例えば、知っている歌や歌手、耳に馴染んだメロディなど、それ自体がすべて『文化』なのだ。

 

だから「異文化間コミュニケーション」には、もちろん国籍の違いもあるけれど、同じ国籍で、同じ言語を使っていても、『文化』には相違があることを理解するべきなのだ。

 

この発言は、私にとっても新しい視点を与えていただいた。そうだったのだ。「最近の若い者は」と思った瞬間に、「異文化で育った人間」の行為だと思えばいいのだ。

 

そう考えれば、その時の違和感を埋め合わせるために、「異文化間コミュニケーション」としてお互いに理解し合う必要がある、と自分で頭を切り替えれば済むことだ。

 

だからこそ、「若者言葉」がわからないのは〝同じ日本語〟だと思うからで、〝似ているけれど少し異なる言葉〟だと思えば、すべてが上手く嚙み合ってくるだろう。

 

そのかわり、ある種の通訳は必要になるかもしれない。例えば「大迫、半端ない」という流行語があった。私には、すごく座りの悪い言葉だった。「半端じゃない」と言わないから。

 

これは、私語(わたしご)では「半端じゃない」を、〝若者国の人たち〟は「ハンパナイ」と表現するのだ、と覚えれば良いだけだ。「ムズイ」も「ハズイ」もそうだ。

 

なるほどなぁ。今日、講師を務めて下さった方は、ソーシャル・コミュニケーションというテーマが自分の本来の研究テーマだと言っておられた。

 

まさに「異文化間」でどうしたコミュニケーションを取ることが、人間関係を潤滑にするのかを考えれば、最近話題の「ジェンダーギャップ」も少しずつ分かるようになるだろう。

 

今日は、良い講演を聞くことができた。この先は、「多様性」の存在ということがあるから、「異文化間コミュニケーション」が必要だと、すっきりと考えることができる。